トップページ

“たぬきの森”と区民ふれあいの森 (おとめ山公園拡張)との連動

おとめ山公園拡張計画

 新宿区立おとめ山公園の拡張に関する、「第2回区民ふれあいいの森検討委員会」の会合が、さる130日に開かれました。同委員会の委員長は、2005(平成17)に「下落合みどりトラスト基金」がお招きし、“たぬきの森”を隣接地域から視察していただいたうえで、新宿区長あてに保存に関する「公開要望書」Click!をいただきました、慶應大学の石川幹子教授です。

 委員会では、委員の方より今回の“たぬきの森”に関する新宿区の敗訴と、「トラスト基金」による“たぬきの森”敷地の買い取り要求継続の報告がなされました。同時に、目白崖線沿いに形成されたグリーンベルトの貴重な緑地であり、拡張計画が進行中であるおとめ山公園と、同じ崖線斜面上の西側にあたる“たぬきの森”の公園化構想とは、切り離さずに連動して検討すべきとの発言に、石川幹子委員長のご賛同が得られています。

野鳥の森公園 薬王院の森

野鳥の森公園()と薬王院の森()

 新宿区には、中山弘子区長が推進する「七つの都市の森構想」Click!がありますが、“たぬきの森”は東のおとめ山公園と西の野鳥の森公園、さらに薬王院の森とを結ぶカナメの場所に位置し、その重要性がますますクローズアップされてきています。なお、「区民ふれあいいの森検討委員会」は一般の方でも参加できるフレキシブルな会議ですので、次回の開催時には「トラスト基金」サイトでもご案内の記事をアップしたいと思います。

新宿区立おとめ山公園

おとめ山公園 財務省宿舎跡地

おとめ山公園()と旧・財務省宿舎跡地()

 おとめ山は、「御留山」あるいは「御禁止山」とも表現され、神田上水の「御留川」とともに、江戸時代にはこの一帯が幕府の天領(幕府直轄地)だったことに由来しています。代々、徳川将軍家の鷹狩り場として指定され、付近の農民の狩猟や立ち入りが禁止(御留)されていたことから、この名称が残りました。おとめ山公園から、目白通りをはさんで北側にある旧・雑司谷旭出(現・徳川黎明会付近)や、さらに北の旧・上屋敷(あがりやしき)地域は通称「鼠山」Click!と呼ばれ、将軍の鷹狩りに関するさまざまなエピソードが伝承されています。また、御留山は現在のおとめ山公園に隣接した、新宿区立落合第四小学校の校歌Click!にも歌われています。

 明治時代に入ると、御留山一帯は近衛家の所有地となり、現在の「近衛町」Click! (下落合2丁目)には近衛篤麿邸が建っていました。また、明治末に御留山一帯は近衛家から相馬家へと売却され、1913(大正2)には丘上に相馬孟胤邸Click!が建設されています。その後、1939(昭和14)に相続の問題から相馬家が中野へ転居すると、東邦生命の太田清蔵Click!が同地を買収し、太平洋戦争をはさんで旧・相馬邸敷地Click!は荒れ果てた状態がつづきました。1960年代に入ると、大蔵省が同敷地を公務員住宅の建設予定地として買い取りますが、当時は「落合秘境」Click!と呼ばれていた御留山の自然を残してほしいとの要望が地元で高まり、下落合住民の強い働きかけが実って、1969(昭和44)71日に公園としてオープンしています。

相馬邸御留山1

相馬邸が建っていた、1913(大正2)ごろの御留山。丘上に建つのが相馬孟胤邸。

  1913(大正2)作成『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。

 近年、財務省(旧・大蔵省)宿舎の老朽化による解体が決まり、新宿区は地域防災と緑地保全の観点から同地の取得を決定、旧・宿舎跡地の約1ヘクタール(A地区+B地区+C地区)の買収を進めてきました。これにより、従来の敷地と合わせて約2.5ヘクタールに拡大した、おとめ山公園の整備が予定されています。さらに、公園に隣接した私有地(中央ゾーン)の買い取りも決定し、地元の下落合住民の参加を含めて現在、拡張に関する話し合いが行われています。

 

 

Copyright © 2005-2010 Shimoochiai Midori Trust. All rights reserved.