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埋蔵文化財包蔵地からみた屋敷森周辺

 

集合住宅の建設が予定されている屋敷森周辺は、埋蔵文化財包蔵地すなわち、昔からなんらかの遺跡が眠っている可能性がきわめて高いエリアだと言われています。以前にこちらでも、下落合周辺に点在する11箇所の遺跡、あるいは未調査の埋蔵文化財包蔵地Click!をご紹介しました。今回は屋敷森を中心に、もう少し詳しく見てみましょう。

上の空中写真は、1947(昭和22)と少し古いですが、みどりが連なる目白崖線(バッケ)の様子がよくわかります。「下落合みどりトラスト基金」が保存を呼びかけている屋敷森が、中央に見えます。その両側には、新宿区から遺跡として指定されているエリアが広がっています。

 

「遺跡No.6」の瑠璃山は、1966年(昭和417月に山麓を宅地開発をしているとき、パワーショベルで斜面を削ったところ横穴がいくつも発見(最終的には4横穴)され、人骨や鉄刀が出土しました。新宿区教育委員会が正式に調査をし、古墳時代末から奈良時代にかけての横穴古墳群だったことが判明しました。ここから出土した鉄刀や人骨は、新宿歴史博物館に保存されていますので、いつでも見学することができます。また、遺跡のふもとにある弁天社には、記念のプレートが建立されています。

(写真上1966年の瑠璃山全景/撮影:竹田助雄氏)

(写真上は横穴古墳発見直後の様子。当初は殺人事件Click!と勘違いされた。/撮影:竹田助雄氏)

「遺跡No.4」は、縄文式土器が発見されていますが住宅地化するのが早かったため、いまだ未調査のままです。土器()がいつごろ発見され、遺跡指定を受けたのかは正確にわかりませんが、1955(昭和30)の新宿区史にはすでに記載されているようです。また、1935(昭和10)の東京府史にも同様の記載が見えますが、これが「遺跡No.4」と同一の包蔵地を指すのであれば、かなり古い時期(明治〜大正期)に縄文式土器が発掘されていたのではないかと思われます。

(写真上は発掘開始直後の落合遺跡、写真下は発掘が進む同遺跡でともに昭和20年代)

中井駅の北側から発見された落合遺跡(目白学園遺跡/遺跡No.2)からは、石器時代より縄文、弥生、古墳、奈良、平安各時代へとまたがる大量の埋蔵文化財が発掘されていますので、通称「大倉山」(戦前まで大倉家所有地)と呼ばれるこの界隈からも、同様の遺跡が発見される可能性があります。先の下落合横穴古墳群からは、入り江の海岸線に棲息する貝の化石も多数発見されていますので、プレ縄文の石器時代から人が住み着いていた可能性が高いといえます。

(写真上は復元された縄文期の竪穴式住居だが、現在は撤去されている。背後は目白学園)

このように、下落合のある目白崖線は、古くから人が住み着いた痕跡が数多く残されており、下落合から中落合、西落合一帯の崖線斜面全体が、「埋蔵文化財包蔵地」といっても過言ではないかもしれません。当然、「トラスト基金」が保存・公園化を求めている旧・遠藤邸の屋敷森にも、周囲の発掘例や遺跡指定などを勘案しますと、なんらかの遺跡が眠っている可能性があります。もし、集合住宅の建設が始まれば、基礎工事などで地下の貴重な文化財や遺跡が、すべて破壊されてしまうことになりかねません。

 

いまに残る武蔵野原生林=屋敷森の貴重性を、周辺の遺跡指定区域の状況を踏まえながら、埋蔵文化財の観点からも探っていきたいと考えています。

 

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