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下落合の緑地はホタルの夏

 

下落合は、王子の滝野川とならび、江戸時代から蛍狩りの名所として知られていました。目白崖線(バッケ)から湧いた清廉で良質な清水で、ホタルがよく育ったせいだと思われます。また、歴代の徳川将軍の鷹狩り場として指定され、「御留山(御禁止山)」として立ち入りを禁止されたのも、自然がよく保存される要因のひとつだったのでしょう。三代将軍・家光と八代将軍・吉宗が、頻繁に雑司ヶ谷から下落合界隈を訪れていた記録が見えます。

(『江戸名所図会』巻之四「落合蛍」)

『江戸名所図会』巻之四には、江戸期の下落合界隈のホタル狩りを描いた、「落合蛍」が図会として記録されています。中央付近に神田上水にかかる田島橋が見え、その周囲を大人も子供も、長い竹の棒を持ってホタルを追いかけています。源氏雲の向こう側、右手には氷川明神社の森も見えています。また、新宿歴史博物館には、歌川一門の豊国と二代広重が描いた、『江戸自慢三十六興/落合ほたる』(1864/元治元)が現存しています。

(『江戸自慢三十六興/落合ほたる』新宿歴史博物館蔵)

御留山は戦前、相馬順胤・猛胤子爵邸でしたが戦後は民間企業が所有し、やがて公務員官舎を建設するために大蔵省の所有となりました。ちょうど東京オリンピックが開催された1964(昭和39)ごろから、「落合秘境」ともいうべきみどり豊かな御留山を保存しようという運動が起こります。運動の先頭にいたのは、当時『落合新聞』を発行していた竹田助雄氏でした。

 

2年近くにおよぶ運動の結果、1966(昭和41)に東京都によって保存が決定します。落合地区で集まった署名は、最終的に800名を超えたと伝えられています。その中には、当時下落合に在住していた船橋聖一、安部能成、船山馨、佐伯米子(佐伯祐三夫人)、三上知治、南原繁各氏の名前も見えます。やがて御留山は新宿区へと移管され、1969(昭和44)に「おとめ山公園」としてオープンしました。

(明治時代の御留山写真がめずらしい『落合新聞』昭和4053日号)

そして、公園内では清廉な清水を利用して、1973(昭和48)から落合ボタルをもう一度呼びもどそうと、ホタルの飼育がスタート。途中で飼育する主体が、新宿区から地元のボランティア団体「落合蛍を育てる会」へと移行しましたが、今でも7月になると、おとめ山公園では落合ボタルを鑑賞する「ホタル鑑賞の夕べ」が開催されています。

 

旧・遠藤邸の屋敷森は、この御留山へと連なるグリーンベルトの一画です。今でも落合ボタルが舞う、御留山を必死で守りぬいた先達のみなさんことを思い浮かべますと、それよりも規模が小さな武蔵野原生林を保存できないわけがない・・・と、「下落合みどりトラスト基金」のメンバーはとても勇気づけられます。

 

署名の数も運動の拡がりも、当時の「落合秘境」保存運動とは比較にならないほど大きくなり、当時は存在しなかった敷地保存のための、日本で最大規模の巨額な「トラスト基金」も集まっています。これで新宿区の貴重なみどりが保存できなければ、もはや「環境を守ろう、みどりを大切に」は単なる希望的スローガンとなり、都内のどこの緑地も保存できるわけがない・・・。わたしたちは、そう考えています。

 

署名および寄付ともに、みなさまのご協力・ご支援を心よりお待ちしております。

 

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