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地元に残る目白崖線の通称「バッケ」とは?

 

そこかしこから泉の湧く河岸段丘斜面のことを、東京では古くから「ハケ」または「バッケ」と呼んできました。武蔵小金井の野川沿いに連なる国分寺崖線は、昔から「ハケ」と呼ばれています。大岡昇平の『武蔵野夫人』で有名な「ハケの径」は、武蔵小金井〜国分寺(殿ヶ谷公園)にかけて今でも大切に保存され、都民が憩う格好のみどりの散策コースとなっています。

 

小金井の「ハケ」に対して、神田川と妙正寺川によって形成された目白崖線の地形は、昔から「バッケ」と呼ばれていたようです。『広辞苑』(第五版)で「はけ」の項目を引くと、同時に「ばっけ」という言葉も同意語として採集されています。

【はけ】(関東から東北地方にかけて)丘陵山地の片岸。ばっけ。

 

いまでも、「バッケ」という地名が残っているのは、現在の中落合4丁目(旧・下落合4丁目)から西落合にかけての、妙正寺川沿いの一帯です。かなり古くから連綿とそう呼ばれてきたらしく、「バッケが原」(急峻な斜面のある原っぱ)という言葉は活きており、現在でもお年寄りから若い方までがご存じです。

 

おとめ山公園から野鳥の森公園、薬王院の森にかけてのグリーンベルトは、まさにこの「バッケ」に沿った武蔵野原生林の連なりです。旧・遠藤邸は、ちょうどその中心部分に当たり、この屋敷森が破壊されますと、「バッケ」の森は東西に大きく分断されることになってしまいます。「バッケ」を往来する動物たちへの影響、また「バッケ」へコンクリートを深く打ち込むことで地下水脈の寸断や流れの変化により、植生へ与える影響ははかりしれません。

 

屋敷は解体・移築作業が始まってしまいましたが、原生の森だけはなんとかして守りたい、小金井・国分寺界隈と同様に都民のみどりの散策コースとして後世に残していきたい、「下落合みどりトラスト基金」ではそう考えています。区長への署名数が増えれば増えるほど、保存への確率は比例して高くなるようです。

 

この週末、「下落合みどりトラスト基金」の報告会もあり、また神田川沿いの桜も満開です。都心にそのまま残る、いまや貴重な武蔵野原生林の木漏れ陽のなかを、ぜひ一度、みなさんもゆっくりと散策されてみてはいかがでしょうか? みなさんのお出かけを、心よりお待ちしています。

下落合の丘陵には、なだらかな坂道もありますが、左の写真のように、急激に谷間へと落ち込んでいる場所もたくさんあります。正面の森は「おとめ山公園」ですが、その脇道へ東側の尾根から抜けるには、かなり急な階段を下りなければなりません。

このような急峻な崖線のある地勢を、昔日の地元の人たちは「バッケ」と呼んだようです。そして、このように崖線に沿って深く切れ込み、湧水の流れのある谷間を「ヤト(谷戸)」と呼称したようです。下落合の周辺にも、字(あざな)を含めて「谷戸」地名がいくつか残されてきました。横浜や鎌倉では、同様の地形が「ヤツ()」と呼ばれていますが、関東地方に古くから伝わる同源の地名音だと思われます。

 

 

落合第四小学校のグラウンドから、新宿方面を眺めたところです。この小学校は、目白崖線の上に建てられていますので、グラウンドが切れた先は急峻な斜面となっています。

斜面の角度が深いため、小学校の下にある家々の屋根さえ隠れて見えません。いまはちょうど、校庭を囲む桜が満開となっています。

 

 

バッケの崖線にかよう、典型的な坂道です。左手が野鳥の森公園で、右手の上が旧・遠藤邸の屋敷森です。このような斜面からは、清廉な水がそこここから湧き出し、動植物が棲みやすかったのはもちろん、人間たちにも最適な住環境を提供していました。

この目白崖線に沿っては、石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉・・・と、各時代の人々が住んでいた遺跡が数多く発見されています。旧・遠藤邸の東側からは縄文時代の痕跡が、西側からは横穴古墳群とともに古墳〜奈良時代と思われる直刀が発見されています。

 

学習院大学のキャンパス内にある、血洗池です。急峻な崖線から湧き出した清水は、そのまま神田川へと流れくだることもありますが、途中の窪地でこのような池を形成することもあります。おとめ山公園に残る池も、絶えることなく湧きつづけている泉水によっていつも満たされています。

学習院大学は、特別な行事がなければキャンパス内へどなたでも自由に入ることができますので、下落合のグリーンベルトを散策がてら、お寄りになってはいかがでしょう。

 

 

 

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