Chichiko Papalog 「気になるエトセトラ」オルタネイト・テイク

堀の中に眠っているのは・・・

その昔、佃島には佃政(つくまさ)という侠客がいた。本名を金子政吉といい、ひらたくいえば古い意味での地回りやくざだ。もともと漁師の出で、町内のさまざまなもめごとや、近隣の魚場や魚市場をめぐる数多くのトラブルを解決してきた。地回りといっても、いまの暴力団とはまったく性質が異なる。町内自治の代表のひとりであり、コンサルタントであり、ガードマンであり、世話役であり、プランナー・コーディネーター・イベンテイターを兼ねたような存在だった。

佃祭りにも、佃政は大きな影響力を持っていたに違いない。伝えられる中でも、彼のもっとも大きな仕事は、築地本願寺が関東大震災で焼失した際に、墓地を杉並にあった陸軍省火薬庫跡地へと引っ越すコーディネートをしたことだろうか。下落合の歌人・九条武子や樋口一葉が眠る有名な築地本願寺別院和田堀廟所(杉並区永福1丁目)の土地を、政府と交渉して本願寺側へ払い下げてもらっている。この墓所には、数多くの佃島島民が眠っていた関係から、“人肌脱いだ”のだろう。いまでも佃の住民は、杉並までバスをチャーターして墓参りに出かける。

このような地元密着型の地回りは、戦前の東京にはほとんど町内ごとにいた。もちろん、東日本橋界隈にも旧すずらん通り沿いにいたし、小林信彦の自伝的小説にも、そのころの情景が何度か登場している。でも、いまはほとんど絶滅してしまった。いまだに健在なのは、浅草界隈の祭りを仕切っている地回りぐらいだろうか。テレビでも紹介されたが、確か粋な女親分だった。東京らしくていい。

  

 

 

この水面の下には、佃祭りの大幟を立てる柱と抱が埋められている。いかにも、江戸時代に橋や堀端に立てられた高札の趣きがあっていい。文面も、「徳川幕府より建立を許された」と、下落合の徳川さんがつい涙してしまいそうな表現だ。左写真は、佃小橋(栗橋)の現状。

 

 

写真上は、舟入堀から大幟の部材が掘り起こされているところ。右は、組み立て終わり、まさに大幟をあげているところ。

 

 

 

 

広重が他界する1年前に仕上げた、「佃しま住吉の祭」(名所江戸百景五十五景)。遠方に、神輿をかついだまま大川へと入る、いわゆる「神輿洗い」が行われている様子が描かれている。右側のすみには、祭礼提灯がゆれているのが見える。

この大幟は、祭りの最中には佃島の随所に立てられるが、わたしの記憶では56本ほどが島内に揺れていたと思う。

 

 

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