Chichiko Papalog 「気になるエトセトラ」オルタネイト・テイク

想い出ポロポロためいき佃島

 

佃島は、196465年に大きな騒動がもちあがっている。中央区役所が、佃島の「佃」という字が当用漢字にないため、「三角」か「住江」に地名を変更すると一方的に通達してきたからだ。ちょうど、下落合34丁目が「中落合」や「中井」などと地元に馴染みのない地名に変更されたのと、ほぼ同じころだ。山手の下落合(目白文化村)からは、それほど大きな反対の声はあがらなかったが、下町・佃の島民は当然のことながら激怒した。「ちょいと出ました佃祭りの神輿かつぎぁ三角野郎かい。このバカヤロー!」と、中央区役所へ押しかけて役人を吊るし上げた。

大川の花火大会復活も、神田明神の主柱・将門復活も、日本橋上の高速道路解体も、当該の役所へ押しかけて担当役人を吊るし上げないと、事の“重大さ”がいつまでたっても認識できないでいるところに、換言すると地元の歴史や風情、住民の愛着や想いがまったく伝わらないところに、少なくとも当時の官庁や公団の病巣があった。(いまでもそうかな?) 役人が、机の上で当用漢字リストを拡げながら、それに載っていない地名を探しては別の名前をつける…、そんな「馬鹿な木っ端役人」(池波正太郎)が、本当に存在したのだ。こうして、佃島の地名はかろうじて守られた。

 

 

 

 

 

 

上の写真2()は、明石町河岸から佃島を見たところ。モノクロの1959年の写真には、5年後に廃止される佃島渡船乗り場が写っている。まだ、隅田川堤防は築かれておらず、江戸時代初期からの石垣積みが見てとれる。右側には表店(おもてだな)の佃煮「天安」の看板があり、後方に見える煙突は、入船堀のすぐ脇にある「日の出湯」。わたしが子供のころ、60年代前半に見た佃島も、こんな風情だったのだろう。あまり、記憶に残っていないのが残念だ。

カラー写真は最近(200412)の佃島。「天安」の看板は相変わらずだが、この右手に佃大橋が架かっている。橋をわたっていくと、風に佃煮を作る醤油のいい香りがまじるのが嬉しい。「天安」の隣りの家(看板のある家)は小豆色のコンクリート家屋に建てかえられてしまったが、左隣りの「天安」の建物自体は、いまだにそのままなのがわかる。「日の出湯」の煙突も健在だが、その向こうの新佃や月島には次々と高層ビルが建ち始めている。

 

 

 

 

 

 

上のモノクロ写真()1965年、入船堀を南から眺めたところだ。堀の左手には「日の出湯」の建物が見え、その向こう側には佃島の鎮守・住吉社の一部がのぞいている。正面、佃小橋の向こうは石川島重工業の建屋で、江戸期には人足寄せ場があった石川島。堀の両岸の舟着き場に、細長い棒のようなものがたくさん見えるが、浅草海苔の養殖用に使われた海苔竿だ。

浅草海苔は、江戸前期は葛西の天然もの、後期になると世界初の養殖事業となる品川沖の海苔養殖場がひらかれ、少しずつ庶民の口にも入るようになった。寛政年間で盛り蕎麦1杯が五文だが、刻んだ浅草海苔をふりかけると十文になったというから、いかに高価だったかがわかる。もともと大名の贈答用によくつかわれた浅草海苔だが、いまでも東京では盆暮れの付けとどけに贈るのが盛んだ。浅草和紙の製法で、まるで紙のように漉かれた江戸浅草海苔は全国へ普及し、いまでは韓国や中国でも作られるようになった。60年代の佃島では、まだ浦安沿岸や羽田沖の浅瀬を利用して、海苔の養殖が行われていた。

 

 

カラー写真は、ほぼ同じ場所からの入船堀。正面に見える擬宝珠高欄(江戸期にはありえない)のついた佃小橋は、わたしのセンスからいえば相当な悪趣味だが、なによりも驚くのはその向こうに見える石川島の変貌だ。「リバーシティ21」と名づけられたこの一画は、60年代には想像だにしえなかった風景。石川島の人足たちが、台風や高波がくるたびに崩れてしまう埋立杭を根気よく打ちこんではしのいでいた地盤なのに、まるで大地震のことなど考えていないかのようだ。

左手の「日の出湯」は健在で、正面の三角屋根のついた白いビルは建てかえられた佃島小学校。隠れて見えないが、その右手には佃中学校がある。佃島小学校は、大阪市西淀川区佃にある佃小学校と姉妹校関係にある。家康が江戸へ幕府を開いた直後、大坂()佃村の漁師を招いたのが佃島の起源だが、いまでも両小学校の文化交流は盛んだ。

また、初代家康の時代から行われているが、現在でも佃島の漁師は、正月になると目白と下落合にある徳川家へ、江戸湾でとれた魚を献上しつづけている。佃島の歴史についての詳細は、また改めて書いてみたい。

 

 

 

 

幕末、尾張屋清七版の切絵図を見ると、石川島の埋め立てはかなり進んでいるものの、まだ月島の姿は影もかたちもない。明治期になって、佃島の南が埋め立てられ「月島」と名づけられるのだが、石川島重工業の下請けである中小工場の町として発達することになる。「」は、上に掲載した写真の撮影角度だ。

1945310日の東京大空襲には、町工場がひしめく月島がねらわれた。でも、現在の佃大橋が架かるあたり、佃島と月島の境界あたりで奇跡的に火災は食いとめられ、佃島は炎上していない。戦後、月島は同じような中小の工場地帯となったが、80年代に入ると工場はつぎつぎと郊外へ移転していく。

工場の移転とともに、月島はずいぶん長い間さびしい町並みとなっていたが、いまでは「もんじゃ」をキーワードにした新たな町づくりが盛んだ。中央の商店街は「もんじゃストリート」と名づけられ、50店を超えるもんじゃ焼き屋が軒をならべている。

 

 

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