Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

富恁テ墳界隈のサークル

1779(安永8)に出版された洒落本『大抵御覧』(朱楽菅江)には、高田富士築造の様子を次のように書きとめている。

「かたはらの山をきりたいらげ、その土を以て新規に山のかたちをきづく。それより老若男女を論ぜず、うぶ子はふ子にいたるまで、われもわれもと土をはこぶ。力すぐれし壮士は十人前も一人ではこび、或は一もっこう或は二もっこう又やごとなき姫御前も紙につつみてそれぞれ多少を論ぜず、土持してだんだんつもる」

このように、近隣の人々が集まって、隣りの山(毘沙門山)あたりを崩して、富塚古墳の墳丘へさらに土をかぶせていった様子がうかがえる。

広重「高田富士」

そして最後に、植木屋の藤四郎が富士山から持ち帰った溶岩や岩石を、少しずつ山へかぶせていった。広重が描いた「高田富士」を見ると、多少デフォルメがされていることを想定しても、かなりの高さにまで積みあげていたのがわかる。この高田富士(富士塚)の真下が、富塚古墳の後円墳丘部だったと思われる。

大正初期に撮影された、早稲田大学界隈のパノラマ写真を見ると、いまでは早大9号館の下になってしまった富塚古墳、つづく毘沙門山(一部が円墳?)、さらに穴八幡(前方後円墳?)から横穴式古墳が見つかった崖面まで、サークル状の形跡が残る一帯を眺望できる。富塚古墳の高田富士は、経年とともに築山の土砂が流れたのか、広重が描いた高さはすでにないように見える。

この一画を、1930(昭和5)ごろに陸軍航空隊が撮影した空中写真を見ると、移転する前の水稲荷境内にあった富塚古墳、毘沙門山、穴八幡、そして大隈庭園内に見えるこんもりとした盛り土部を観察することができる。

さらに、空襲を受けて延焼したあと、戦後の1947(昭和22)の米軍機撮影による空中写真では、地表面の様子がさらによくわかる。富塚古墳あたりには、サークルが2つ寄り添うように見えている。ひとつは、前方後円墳の墳丘=高田富士であり、もうひとつは旧・毘沙門山の一部にかかるように早稲田通り寄りに存在する。また、大隈庭園全体のほぼ全域にかかるように、もうひとつ別のサークル状のフォルムが見てとれる。南端は、大隈講堂の北面に接している。

江戸期に、隣りの毘沙門山(一部は円墳?)を崩しながら、富塚古墳の上に高田富士は造られているが、同様のことが古代にも行われていたのではないか?・・・と想定できるのが、大隈邸のようなケースだ。つまり、古墳時代の早い時期に造られた巨大な円墳(または帆立貝式古墳)の築山の土砂を再利用して、その後に前方後円墳が築造されたのでしないか?・・・という疑いだ。前方後円墳は、古墳時代の前期から中期にかけて多く見られる築造形式だが、さまざまな円墳や方墳も同時期に併存している。系列の異なる首長への交代、あるいは敵対する勢力の侵入など、いろいろな可能性により、墳丘築造のやり直しが行われたのではないか?

この場合、先に存在した円墳のサークル形が残り、さらにその円墳に近接するか、そのサークルの一部にひっかかって、新たな前方後円墳のフォルムが重なってくる。下落合の氷川明神や、上落合の神田川沿いの前方後円墳らしきフォルムを見ると、同様の重なりのある箇所がいくつか確認できるのだ。大隈邸のように、明治期まで前方後円墳らしい築山が残っていればともかく、下落合の氷川明神のように、両方ともフォルムのみが残る場合は、どちらが先に築造された人工物かは不明だ。

 

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