Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

十返千鶴子さんのお気に入りの下落合散歩

佐伯祐三公園については、連作「下落合風景」の場所特定とともに、目白文化村シリーズの「下落合風景・佐伯祐三の視線」Click!で詳しく紹介したので、十返千鶴子さんの薬王院あたりからの散歩道をたどってみよう。

佐伯公園から薬王院までの詳しい道順は随筆の中に書かれていないが、おそらく墓地から薬王院脇の階段坂を通って、薬王院の山門前へと出られたんじゃないかと思う。この薬王院脇の階段坂をのぼりきったところが、瑠璃山山頂にあたり、おとめ山公園からの眺めと同様、新宿の街並みが一望できる。この絶好のロケーションを、好奇心旺盛な彼女が見逃すはずがない。

上の写真は、1960(昭和35)前後の空中写真だが、瑠璃山にもたくさんの緑が残されていたのがわかる。この山麓から、1966(昭和41)下落合横穴古墳群が発見Click!された。現在は弁財天の祠があり、その南側を十三間通り(新目白通り)が走っている。

 

 

 

上の写真2点は、薬王院沿いにある瑠璃山山頂からの階段坂(ポイント@) 坂の途中には、江戸期からの石仏も見られる。夜になると人通りもたえ、下落合ダヌキも横断しているのかもしれない。

左は、坂を下りきったあたり。(ポイントA) 右手の塀は、坂上からつづく薬王院の境内。境内の大木は、早くから新宿区の保護樹林に指定されている。

 

 

 

「さらに東に歩くと、最近牡丹で名の知れた薬王院があり・・・」

薬王院の山門(ポイントB)と、薬王院の境内(ポイントC)。真言宗の寺で、正式名称は「瑠璃山薬王院医王寺」という。また、別名では東長谷寺とも呼ばれている。鎌倉時代の開山だ。

現在の本堂は明治期のもので、本尊に薬師如来像を安置している。石仏や古い墓石の刻字を見ると、寛永年間(1624)のものまで見られるので、江戸期からかなり参拝者で賑わっていたようだ。十返千鶴子さんも書かれているように、現在では境内全体に牡丹を栽培しており、4月末ごろから牡丹見物の人たちで賑う。通称「牡丹寺」などとも呼ばれている。

 

 

落合丘陵(目白崖線)に沿ってつづく、下落合「バッケの道」。鎌倉時代からの古道のひとつだ。(ポイントD)

50mほど進むと、左手に七曲坂、右手に氷川明神があり、さらに進むと御留山山麓へと出る。若山牧水は大正初期、この道を向こうからやってきたが、十返千鶴子さんは反対側から歩いてきたことになる。

 

「その裏側の細い坂道が私の大好きな散歩道である・・・」

下落合には、いまだに畑が残っている。Sさんの畑だが、新宿区で畑が残るのはここと、早稲田の神田川沿いにある一画しか知らない。近所の床下には、大きなアオダイショウが住みついていて、春先には奥様の「キャーーーッ!」が聞こえたりする。千鶴子さんの散歩は、この畑を左に折れて横道に入る。

 

30mほどで、すぐに野鳥の森公園へと突き当たる。(ポイントE)

わたしが学生時代、ここには古い日本家屋が建っていたが、ほどなく廃屋となってしまった。夜間ここを通ると、鳥肌が立つほど暗い道だった。「オバケ道」という名称は古いが、もともと「バッケ道」と呼ばれていたのかもしれない。いまでも、屋敷跡の礎石が公園内に残っている。

 

 

 

「幅二米もない急坂の両側は欅の大樹でおおわれ、春の新芽、秋の黄葉にはその都度息をのむ。もとより車は通れず、すれ違う人影も殆どない・・・」

「オバケ道」の様子を描いた一節。現在でも、この風情はほとんど変らない。(ポイントFポイントG) 上の写真右が、「幅二米もない急坂」と表現されている野鳥の森公園横の坂道の現状。いまは拡幅されて3mほどになっているが、もともとの道幅は現状アスファルトの幅しかなかった。しかも、両側から木々がせり出すように繁り、葉が肩へ触れずに通るのもむずかしかった。

上の写真2枚とも、左手が野鳥の森公園で新宿区の所有地だ。でも、ここの緑全体が、新宿区の「野鳥の森」と思っている人が多いが、写真2枚の右側緑地は個人の所有地のままなのだ。武蔵野原生林が繁っているのはまったく同様なので、ほどなく今回のE邸と同じ問題が発生する可能性が高い。

 

 

野鳥の森公園にある池を、「オバケ道」から眺めたところ。十数種類の野鳥が観察でき、冬にはカモやシラサギの姿を見かけることもある。数年前、ここでカモが雛を孵したが、野良ネコに狙われる可能性が高いため御留山の東側の池へ移したことがある。でも結局、雛は死んで育たなかったようだ。

春にはカエルの卵が池じゅうに産みつけられ、ほどなくオタマジャクシだらけになる。ときどき、金魚や鯉も見かけるので、飼えなくなった誰かがこの池に放しているのだろう。御留山に棲みついているシマリスもそうだが、棄てるなら最初から飼わなければいい。

 

 

「坂を上りつめ、九条武子終焉の地がある静かな住宅街を左に・・・」

坂をのぼりつめたところには、このような瀟洒な門が、ひっそりとしたたたずまいを見せている。(ポイントI) ・・・はずなのだが。

 

 ↓

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お願いだから、

壊さないでおくれ!

・・・と言いたい。

 

 

九条武子(18871928)の旧邸跡。彼女については、「ふたつの元祖の九条武子Click!で少し触れた。大正から昭和初期にかけて、女流歌人として活躍、仏教婦人会を組織してボランティア活動に取り組んだことでも知られている。ちょうど、いまの季節に詠んだ歌・・・。

菜の花のむせぶ香重う雨よびて

くるし今宵をくづれゆく春

 

「谷間を埋める乙女山(御禁止山)公園の雑木林を右に歩を進めると・・・」

御留山へと抜ける尾根筋の道。このあたりを「鼠山」と呼んだ江戸時代の記述が見えるが、同じ江戸期の地図(江戸大絵図)には、現在の目白通りの向こう側、長崎村に隣接した一帯に「鼠山」の記載が見える。聖母坂の「不動谷」と同様に、時代とともに移動しているのかもしれない。いずれ、調べてみたいテーマだ。

 

こうして、十返千鶴子さんは散歩を終え、下落合2丁目の自宅へと帰られるわけだが、御留山の手前あたりから、ときに散歩コースを振り返ってみることもあっただろう。そこに拡がっていた、千鶴子さんお気に入りの風景とは、写真下のような眺めだったに違いない。

 

 

 

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