Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク |
高田敏子の下落合散歩
高田敏子(1914〜1989)は、ちょうど戦時下を下落合ですごしている。戦後、1948年(昭和23)には、亡くなるまで暮らすことになる諏訪町へと引っ越した。高田馬場へと転居してからも、下落合の散歩はお気に入りだったらしく、高田馬場から西武新宿線に乗っては頻繁に訪れていたようだ。数多い詩作の中でも、薬王院のボタンを詠んだ「牡丹
−下落合・薬王院−」という詩が、同寺の想い出とともに残っている。奈良の長谷寺から移植されたボタンを、彼女は当初から気に入っていたようだ。 ● 手に触れられ 見入られて 牡丹の花は ふと さびしいまなざしを見せた 華やかに咲いた花の 心の かげり (中略) 見つめられるはじらいに 花は 夕やみに包まれるのを 待っている ● 1966年(昭和41)、薬王院にボタンが初めて植えられてから、高田敏子は通いつづけていたようだ。戦時中もおそらく、殺伐とした世相や不安から逃れるために、薬王院周辺の森を散策したのかもしれない。背中に次女をおぶりながら・・・。 |
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高田敏子の自宅は、聖母病院正門のまん前にあった。借家だったというが、戦後の空中写真では戦災で焼けてしまい見あたらない。左は、昭和初期の聖母病院。(ポイント@) 彼女は、聖母病院のこの姿を日々目にしていたはずだ。戦時下、周囲を憲兵たちが取り囲み、外国人の神父やシスターたちを24時間監視していた。 |
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左は昭和初期の聖母坂。(ポイントA) 現在よりも、当時は坂の傾斜が急だったと書かれているが、舗装する際に傾斜をなだらかにしたのだろうか? 坂を下りていくと、途中から久七坂の尾根筋が切れて、新宿西口方面の展望が開ける。当時は高いビルもなく、手前を横切る妙正寺川や神田川の流れが陽の光に照り映えていたのかもしれない。 写真の左手は聖母病院で、その裏には目白第三文化村Click!があった。右手は急峻な崖線で、戦前まであった湧水を利用した冷たいプールの記憶が、いまでも地元に残っている。 |
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左上のカラー写真は、下落合から見た新宿西口方面の眺め。(ポイントB) モノクロ写真は、昭和20年代の新宿から下落合方面を展望したもの。手前左が歌舞伎町で、中央から右手に広がる団地は、戸山ヶ原の跡に建設された戸山アパート。このアパート群の向こう側に、高田馬場駅がある。遠方に連なる黒っぽい筋が、下落合の丘陵地帯。(目白崖線) |
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左は、現在の聖母坂下の様子。坂をのぼりきった左手に、聖母病院の正門がある。(ポイントC) 十三間通りが貫通する前、薬王院へと向かうには、坂を下りきったところの細い道を左折し、瑠璃山山麓の弁財天(下落合横穴古墳群)の前を通って、薬王院山門へと抜けられた。 |
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左のモノクロ写真は、高田敏子がよく散歩にかよったと思われる、1970年代の薬王院山門の様子。(ポイントD) 右は2005年の境内の様子で、枝垂ザクラの大木が満開だ。(ポイントE) 高田敏子は薬王院から先へ、十返千鶴子のように散策をしなかったのだろうか? いや、木々や草花を愛でる彼女のことだから、おそらく現在の野鳥の森に残るオバケ道、あるいは七曲坂ものぼっていったに違いない。そして、そこには下のような風景が眺められたのだと思う。 |
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