Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

水道塔のある風景

昭和の初期、葛ヶ谷(西落合)が風致地区に指定されていたころ、目白文化村の北辺からは畑や雑木林、草地などの向こうに豊玉水道の野方給水塔(水道塔)がよく見えた。西落合に住みつづけた、松江出身の版画家・平塚運一(18951997)も、水道塔を描いたたくさんの葛ヶ谷風景スケッチを残している。そのロマネスク調のデザインは、周囲に住む画家たちの格好の写生テーマとなっていたようだ。

上は水道塔の形状から、葛ヶ谷方面から描いた風景と思われる。手前には畑や草地が拡がり、藁葺き屋根の農家が点在しているが、左手には尖がり屋根のハイカラな別荘のような建物が描かれている。1931(昭和6)前後の、水道塔ができた直後の風景のようだ。正面の、寺院のような屋根は自性院だろうか? 平塚運一は1997年に102歳で亡くなり、自性院で葬儀がいとなまれた。

1933(昭和8)ごろの野方給水塔。周囲にさえぎるものは少なく、地上から33mのドーム状給水タンクは、周囲のどこからでも望むことができた。落合第一小学校の屋上からは、この野方給水塔と大谷口給水塔がペアで見えたと、泉麻人氏は書いている。

1938(昭和13)ごろ、新青梅街道から眺めた野方給水塔。新青梅街道は、まだ舗装されていない。道の左手が、現在の西落合12丁目、右手が西落合34丁目。

戦後すぐのころに撮影された、典型的な葛ヶ谷(西落合)風景。藁葺き農家と畑地が拡がる中に、かなりモダンな住宅が建設されていて奇妙な感覚にとらわれる。

1954(昭和29)ごろの野方給水塔。方角的には、現在の西落合2丁目あたりから撮影されたもの。家々が増えているとはいえ、畑地はまだそこかしこに残っていた。

現在(2005)の野方給水塔。周囲をアパートやマンションに囲まれ、そのすき間からしかドーム状のタンクを見ることができなくなった。来年度からは都水道局から中野区へと管理が移行し、街のシンボルとして保存が決定している。

 

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