Chichiko Papalog 「気になるエトセトラ」オルタネイト・テイク

大磯の明治別荘街を歩く

 子供のころ、ちょいと贅沢な中華料理を食べに行こう・・・ということになると、大磯の旧・伊藤博文邸が第1候補にあがった。同邸は早くから、宴会やパーティなども開ける少し高めの中華料理レストランとしてスタートしていた。当時は独立した中華料理店だったが、現在は大磯プリンスホテルに買収されて、結婚式場や大きな宴会場なども併設されている。

 大磯でよく遊んだ196070年代にかけ、わたしはもっと周囲を観察して、写真を撮っておけばよかったと悔やんでいる。このあたり、1973年から目白文化村を散歩していたにもかかわらず、カメラを持ち歩かなかった悔しさと同じ感覚だ。当時は、大磯の海と山と太陽しか目に入らず、建物や街並みなどにはまったく注意を払わなかった。下の地図は、大磯のわずかな中心部だけで、高麗山のある東側(平塚寄り)のエリア、および大磯プリンスホテルから西側(二宮寄り)のエリアにも、多くの別荘街が拡がっている。

 

日本で初めて海水浴場が開かれた照ヶ崎()と、伊豆半島を背にした松本順の記念碑()

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 大磯駅を出ると、目の前に旧・岩崎家の別邸だった丘がある。いまでは、丘全体が故・澤田美喜のエリザベス・サンダース・ホームと聖ステパン学園になっていて別邸の建物はすでにないが、丘の向かって左手には、明治中期に建てられた西洋館(山口勝蔵邸)が、ほとんど建築当時の姿で残っている。(@)

 少し前まではフランス料理のレストランで、シェフはテレビの料理番組にも出た“有名人”とのことだが、何度か食べたことがあるけれど美味しく感じず、わたしの口には合わなかった。

 

旧・岩崎邸の正門()でエリザベス・サンダース・ホーム入り口と、隣接する街並み()

A B

 旧・岩崎家の丘に沿い西側の道を歩き出すと、左手に岩崎別邸の正門がある。戦後からは、エリザベス・サンダース・ホームの入り口だ。門の正面には、澤田美喜のレリーフがはめ込まれている。この丘の南側にある地福寺には、大磯を愛した島崎藤村夫妻の墓(A)があり、近くには自宅も現存している。(B)

C D

 南にくだって国道1号線にぶつかると、正面が日本三大俳諧道場のひとつ、鴫立沢(しぎたっさわ)のほとりに鴫立庵(でんりゅうあん)がある。この鴫立庵の周辺あたりの敷地が、旧・山内豊景邸だ。1664(寛文4)、小田原在住の僧であり歌人でもあった宗雪が、西行の歌*を慕ってここに草庵をかまえ、東海道沿いに「著盡湘南清絶地」と刻んだ石碑を建立した。これが、湘南という地名のもっとも古い呼称だ。(C) 周囲には、いまでも大正期〜昭和初期に建てられたと思われる住宅が点在している。(D) 近くには、新島襄の終焉地もある。

*三夕の歌のひとつ、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」。

E F

 

旧・陸奥邸の屋敷森()と、大隈邸と鍋島邸の敷地間にある海岸へと抜ける道()

 旧・山内邸の並びには、西に向かって徳川茂承邸の広大な敷地があったが、いまではふつうの住宅街となり、昔の面影は皆無だ。同様に、徳川義禮邸・山県有朋邸などは大磯中学校と住宅街になっている。このあたりから、旧・東海道の松が国道1号線の両側に並ぶ。(E)

 大磯中学の先には、明治時代に築かれた陸奥宗光邸と大隈重信邸の塀がえんえんとつづく。(F) 現在は古河電工の敷地になっていて入れないが、大隈重信邸と陸奥宗光邸はそのまま現存しており、「大磯寮」と呼ばれている。一般には公開されていないので見学はできない。

 G

 

 鍋島直太郎邸の敷地をすぎると、伊藤博文邸が目の前に見える。大磯プリンスホテルの別館となってしまった、中華レストランの「蒼浪閣」だ。(G) 伊藤邸もそうだが、海岸線に国道が通る前は別荘の敷地は渚までつづいており、海に面したそれぞれの屋敷の前浜は「マイ・ビーチ」に近い概念だったのだろう。子供のころの印象では、屋敷全体が茶色いレンガ造りのような記憶があるが、現在では壁が白く塗られているようだ。

 国道1号に面したレストラン側は、かなり手を入れられているが、南側(海側)は往時の姿のままをとどめている。宴会場や個室は、ほぼ伊藤邸の当時そのままで、ステンドグラスなどが美しい。

 H

 

旧・池田邸の渚へ向かう道()と、広大な屋敷森()。広すぎて大きな屋敷がほとんど見えない。

 伊藤邸をすぎると、すぐに池田成彬邸が見えてくる。とてつもなく大きな西洋館だ。もともと、この敷地には西園寺公望邸が建てられていたが、“引越し魔”の西園寺はそれほど長くは住まなかったようだ。頻繁な転居は、政治的な意図があったともいわれる。西園寺邸のあとに、池田家が別邸を改めて建設している。現在の建物は、1932(昭和7)に建てかえられたもので、いまは三井住友銀行寮となっている。(H)

 池田邸の広大な敷地は、ほとんどそのまま手つかずの状態で残っている。敷地の南側は大きな砂丘をともなう黒松林となっていて、西湘バイパスへと急激に落ち込んでいる。また、邸敷地の南側は、神奈川県主導のみどりトラスト基金運動により自然のグリーンベルトが残り、遊歩道とサイクリング道路が設置されている。

 I

 池田邸の広大な屋敷森をすぎると、徳川三卿である清水家の敷地がある。(I) いまでも、屋敷森の大木と思われる樹木や、整地跡の遺構などを観察することができる。清水邸も池田邸と同様に、広大な敷地の南側は海に面しており、砂丘の上に立つと三浦半島から伊豆半島までを一望することができる。

 さらに西へ進むと、伊達宗陳邸、梨本宮守正邸、三井高棟邸、新しいところで吉田茂邸などが連なっているが、今回は時間がなくてまわれなかった。特に、三井高棟邸の屋敷森(というか岩崎邸と同様に、もはやひとつの山だが)は、「城山公園」として開放されており、山の中腹には横穴式古墳群や大磯郷土資料館があるなど、その豊かな森とともに見所がいっぱいだ。

 正面の右から左へと連なる丘が、三井邸の屋敷森。現在は大磯町の「城山公園」となっている。遠くの山々は箱根連山だ。

 手前は、まだ大磯のところどころに見られる畑地。ちょうど、目白文化村が開発され始めた大正中期ごろの下落合の風情を、大磯はいまだに保っている。子供のころから変わらない眺めだ。

 目白文化村とほぼ同時期、大正末から昭和初期にかけて建てられた洋館と和館も、大磯の随所で目にすることができる。

 でも、これほどの密度で、明治期から大正初期の貴重な建築物があちらこちらに残っていると、昭和初期のモダンな西洋館や別荘があっても「新しい」と感じてしまい、いつもの東京で暮らす感覚がマヒしてくる。

 明治10年代より大正期まで、大磯に本邸や別邸をかまえた人々について、改めてまとめてみた。なお、これらの人名は判明しているものだけで、ひっそりと“隠れ家”的な別邸を建てた人々の数は、さらに多いと思われる。

山県有朋、林薫、後藤象二郎、河野敏鎌、小笠原忠悦、樺山資紀、稲葉久通、徳川義禮,山内豊景、梨本宮守正、陸奥宗光、伊藤博文、酒井忠道、徳川茂承、鍋島直大、大隈重信、渡辺千秋、清水篤守、西園寺公望、加藤高明、真田幸正、伊達宗陳、池田成彬、寺内正毅、赤星弥之助、浅野総一郎、森村市左衛門、三井高棟、岩崎弥太郎、岩崎弥之助、古河市兵衛、原六郎、村井吉兵衛、根津嘉一郎、井上準之肋、安田善次郎、住友寛一、山口勝蔵、浅田徳則、加藤正治、木村孝太郎、小林弥太郎、薩摩治兵衛、園田幸吉、中橋徳五郎、長井利右衛門、中山沖右衛門、西脇済三郎、増田義一、籾山半三郎、八十島親徳、山本嘉平衛、山田徳兵衛など

 

左は高台に建てられた松本順邸、右は赤星弥之助邸。ともに現存していない。

 また、昭和に入ってからは、吉田茂などの政治家ばかりでなく、作家や文化人などが数多く在住したり、逗留したりしていた。島崎藤村、坂口安吾、川端康成、大岡昇平(以上小説家)、福田恒存(翻訳家)、高田保(詩人)、中村吉右衛門(役者)、安田靭彦(画家)、新しいところでは村上春樹(小説家)などが住んでいる。さらに、目白文化村を開発した箱根土地が、昭和初期に大磯のさらに西、国府津(こうづ)の文化村開発事業に乗り出したせいか、堤康次郎の別邸も大磯にあった。先ごろ、釈放後に西武の元総帥が記者たちのインタビューを受けていたが、大磯の別邸の門前だ。

 オスガキどもが小さかったころ、毎年夏休みになると、わが家は大磯で過ごすのが習慣となっていた。わたしが子供時代にさんざん遊びまわった第二の故郷だし、海に山に豊かな自然がそのまま残っていて、なおかつ縄文から現代まで、さまざまな歴史を子供たちに“体験”させられるからだ。大磯の“物語”を掘り起こしはじめたら、目白文化村シリーズClick!5倍以上のボリュームを費やしても、おそらくまだ書き足りないだろう。

 数年ぶりに訪れた大磯は、ほとんど子供時代の町のまま、昔とほとんど変わっていない。これを機会に、神田川シリーズがひと段落ついたら、つれづれ大磯シリーズでも始めようかと思っている。

 

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