Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

江戸期の絵図でたどる「鼠山」

 

 

 江戸時代の早い時期に書かれた絵図(地図)で、「鼠山」が登場するものに、須原屋茂兵衛蔵版の『分間江戸大絵図』がある。元禄年間に刷られたもので、わたしの手元にあるのは1698(元禄11)の版だ。延宝年間(1670年代)の記録もある幕末に作成された『御府内場末往還其外沿革図書』とともに、江戸郊外の様子を知るには欠かせない絵図だ。

 『分間江戸大絵図』(下図)で「鼠山」を探すと、神田上水や下落合村あたりからはるかに離れた位置に記載されている。板橋街道のすぐ近くで、法明寺前の道と雑司ヶ谷鬼子母神前の道が交差する先、ちょうどこの時期には「丸池」という池があった池袋村あたりだ。ちょうど、現在のJR池袋駅西口あたりに相当する。また、「鼠山」の位置は、なぜか目白・下落合丘陵と思われる山ではなく、山の裾野に近いところに採集されている。

 次に、江戸初期から中期にかけての丸池(池袋)界隈を記載した『池袋村図』だ。(下図) 「鼠山筋」や、「鼠山道」という記載が見えている。ここで緑色に塗られ“芝地”と記入されている付近が、本来の「鼠山」だといわれている。手前に描かれた青い流れは「丸池」からのものだが、「丸池」自体は描かれていない。この位置関係が正しいとすれば、上掲の『分間江戸大絵図』の記載、法明寺を先へと進んだ右手(北側)の方角ともよく一致している。

 また、ここに描かれた「鼠山道」はどうやら自由学園明日館の東側に接し、北西へと通じる階段状の道のようであり(生丹さんのご指摘)、その先に「鼠山筋」という記載があるが、これが鼠山山麓を表す境界線の意味なのか、それとも「鼠山」へと通う小路の意味合いなのかで、解釈が分かれる。

 この「鼠山道」と法明寺前の板橋街道へと抜ける道が異なることは、『寛政年中江戸切絵図』の「高田目白台関口雑司ヶ谷辺図」でも明らかだ。(下図) 上掲の絵図とともに合わせて考えると、「鼠山」と呼ばれた一帯は、古い時期には「鼠山道」へ接しておらず、かなり北側にずれた位置、むしろ池袋村の丸池方面へと向かう道筋のほうが近かったように見える。

 ところが、『御府内場末往還其外沿革図書』には、ほぼ現在の位置と変わらない延宝年間(1670年代)とされる、長崎村に隣接した「鼠山」が採集されている。(下図) ただし、注意をしなければならないのは、この『御府内場末往還其外沿革図書』の「下落合村長崎村鼠山辺」は、当の延宝年間に描かれたものではなく、幕末の最終期である1854(嘉永7)に、180年以上前の延宝時代を想起して描かれたものだ。つまり、延宝期にリアルタイムで描かれたのではなく、昔を思い出しながら描かれた絵図だということだ。

 次に、江戸中期に描かれた岩田本舗版の『江戸名所絵図』を見てみよう。(下図) ここでも、「鼠山」の位置が微妙に動いている。今度は、長崎村のさらに先、葛ヶ谷の上あたりに記載されている。現在の位置でいうと、西武池袋線の東長崎駅あたりの感覚だ。「薬王イン」の採集がある下落合村からも、よほど離れているのがわかる。また、池袋村からもかなりの距離を置いている。

 だが、江戸後期の1806(文化3)になると、『下落合村絵図』ではほぼ幕末と変わらない位置に、「鼠山」の記載が見てとれる。(下図) おそらく、前出の『御府内場末往還其外沿革図書』(1854年・嘉永7)も、文化年間のこの『下落合村絵図』を参照していると思われ、これ以降、「鼠山」が微妙な位置にある絵図または地図は存在しない。絵図に「雑司ヶ谷通り」と記載されているのが、江戸前期における「鼠山道」だと思われる。

 この絵図には、氷川明神女体宮や七曲坂の記載もはっきりと見え、これにより「鼠山」の場所が不動となったのではないか? 天保年間(1830年代)に刊行された『江戸名所図会』の取材にも、この『下落合村絵図』が直接資料として使われているに違いない。

 そして幕末、1854(嘉永7)に刷られた、『御府内場末往還其外沿革図書』ということになる。(下図)  長崎村の入会地だった周囲も開墾が進み、「鼠山」を取り囲むように畑地が拡がっているのがよくわかる。左手にある、赤く「大神宮」と書かれた社が、現在の目白5丁目にある天祖神社だ。現在、この「大神宮」前の道を南へと下ると聖母坂へ抜け、北へと上ると山手通にぶつかる。

 これが、『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会)などでも数多く引用されている、『御府内場末往還其外沿革図書』の原図だ。(下図)  1854(嘉永7)に作成されているので江戸末期の姿だ。すでに「鼠山」は、目白通り(鼠山道/雑司ヶ谷通り/清戸道)にほぼ接する位置へと固定されている。

 ただ、ひとつ割り引いて考えなければならないのは、「鼠山」の位置が曖昧に記載された絵図は、江戸前期のものが多く、江戸後期になると場所特定が明確になってくる・・・という点だ。つまり、朱引き墨引きが大きく拡大した、江戸から大江戸へと推移するにつれ、それまでは記載されることのなかった江戸郊外の詳細図が盛んに描かれるようになる。初期の曖昧な記載は、朱引きの外だったエリアなので、いい加減に記載・収録された可能性も否定できない。同時に、地域の細分化された絵図が多く刷られるようになる江戸後期になって、ようやく正確な位置が特定できた・・・とも考えられる。初期の絵図は、後期に大流行する切絵図形式とは違い、いずれも大絵図形式であることが多い。換言すれば、正確な位置特定がしにくい形式であるということだ。

 でも、江戸時代以前はどうだったのか? 江戸幕府が開かれる前、当然ながら「御留山」の呼称は存在しなかった。では、現在の「御留山」を含む、広重の「高田姿見はし俤の橋砂利場」に見える山塊を、当時の人たちはなんと呼んでいたのだろうか? そこに、鎌倉期あるいは室町期からの伝承として残る、「不寝見山」という呼称がひょいと顔をのぞかせる。

 ひょっとすると、下落合の丘陵地帯を「鼠山」という総称で呼んでいて、それが江戸期になると「御留山」の一般名詞の普及とともに、エリア限定の地名に転化していった・・・という考えも、あながち看過できないのだ。

 

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