Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

 

中村彝アトリエを拝見する

1947(昭和22)に上空から眺めた中村彝アトリエ

  現存するアトリエは、ほぼ正方形に近いかたちをしているが、1916(大正5)に建てられたオリジナルの部分と、1924(大正13)に中村彝の死後、5年ほどして増築された部分とに分けられる。ただし、昭和初期に洋画家の鈴木誠が譲り受けたあと、1929(昭和4)に建て増しされた部分は、東側のアトリエに接した部屋の一部と玄関の部分のみで、アトリエ本体や他の部屋は、ほとんど手つかずのまま現在まで受け継がれてきた。

  まず、増築された現在の玄関(@)から入ると、西へと向かう廊下のすぐ右手に大きなアトリエの入り口が、口を開けているのが見える。(A) 晩年の中村彝が、這うようにしてアトリエと居間(応接室)とを行き来した、黒光りする板敷きの廊下(BC)もそのままだ。

@ A

B C

  アトリエに入ると、巨大な採光窓が北面の三間半にわたる壁一面と、鋭角の傾斜屋根の天井に切られている。(DEFG) 漆喰の壁面には最晩年、死ぬ直前に描かれた『老母の像』(水府明徳会徳川博物館)に見える、水差しを置くための壁の凹みも、ふさがれてはいるが残っている。

D E

F G

『老母の像』(1924年・大正13)

  採光窓とは反対側、アトリエの南側の天井近くには、おそらく未使用のキャンバスや描きかけの絵、あるいは過去の作品などをストックしておいたのだろう、大きな天袋状の棚が設けられている。(HI)  大正時代に紡がれた物語の世界と、21世紀の現在とが、いきなり直結したような生々しい感覚を覚える。目白駅で鶴田吾郎に、いきなり絵のモデルとしてスカウトされたエロシェンコも、林泉園上の道を案内されながら、このアトリエへとやってきたのだ。

H I

  採光窓とは逆の画室入口には、扉も引き戸もなにもなくオープンで、廊下を隔てて居間(応接室)の壁に面している。その壁には、縦1.6m×横3mほどの大きな作品を居間へと運ぶ、横長の搬出口が造られている。(JK)

J K

書棚があってわかりにくいが左がアトリエから、右が居間から見た搬出口。

  南向きの居間へ入るには、アトリエを出て廊下を左へともどり、玄関脇のドアから入らなければならない。(L) 現在の玄関正面には、昭和初期に造られた壁があるが、『老母の像』に見えるアトリエ壁面の水差し置きの凹みを模した、同じデザインの飾り凹みがあるのが面白い。(M)

L M

廊下から居間へと抜けるドアも、ドア板からノブ金具にいたるまで当時のままだ。(N)

 

 N

当初は応接室と呼ばれた居間(O)は、南に拡がる林泉園の谷間に面していて、当時はまだ樹木もかなり低く、日差しがたいへん心地よかっただろう。結核を患った中村彝には、最適な療養環境だったように思える。晩年には、この居間の西側にベッドを据えて、身体の調子がよいときはアトリエとの間を往復していた。鶴田吾郎が臨終に駆けつけたのも、この居間に置かれたベッドだったろう。

O P

中村君は画室の前、南に開けた六畳ばかりの日当たりのいい明るい室に寝台を置いて、大概これの上に仰臥していました。訪ねて来る者はその寝台の傍へ椅子に腰掛けて語るのが例でした。中村君は、たまに健康状態が許されると、画室に入って制作をすることがあります。しかし、この制作中にあってはどんなに親しい者であっても、画室に入って見られることを好みませんでした。人に会う時は、直ぐ画室から出て、寝台の上に横たわり、平常の沈静に復して、徐々に芸術上のことや、友人達の上に起きたことなどを語り合うという風で、ことにこの晩年二、三年間は、画室に入って見られることを嫌ったようです。

で、制作中以外の生活は、ほとんどこの五年間というものは寝台生活であって、春夏秋冬、目に親しみ、心を楽しませ、深い自然の遷り変わりを観じさせたものは、この五十坪余りの庭より他なかったのです。この間恐らく、私の知れる限りに於いては、一歩も庭以外を歩いて出た姿を見たことがありませんでした。(『椿の庭』鶴田吾郎より)

写真に写る正面の壁下あたりが、ベッドの置かれていたところだ。芝生と椿の庭が見わたせる、気持ちのいいこの部屋(PQ)のすみで、中村彝は1924(大正13)1224日のクリスマスイヴ、静かに息を引きとった。

Q R

  昭和初期に、画室から分離して少しだけ増築された部屋のドアは、もともと中村彝の寝室に付けられていたドアのようだ。(R) 居間のドアとまったく同一デザインで、当時のままと思われる。ベッドを日当たりのいい居間へ移動すると同時に、寝室は使われていなかったのだろう。

庭へ出ると、いまは大きく育った樹木が、屋敷森状にアトリエの周囲を取り巻いている。(S) 中村彝が暮らした当時は、アトリエの建物前面に芝生が植えられ、林泉園の尾根道との境目には、椿の木が植えられていた。その椿の生垣のさらに向こう側には、林泉園の道沿いに植えられた桜並木が繁っているのが見えた。

S・1 S・2

S・3 S・4

S・5 S・6

S・7

  濃いオレンジ色が美しい屋根瓦は、大正初期にはたいへん珍しい、ベルギーからわざわざ取り寄せた高価な瓦だった。当時、所沢にあった陸軍航空隊の複葉機は、緑の中にポツンと目立つ、中村彝アトリエの赤い屋根を目印にして、東京市上空へ侵入したと伝えられている。

  アトリエ内部の壁は、日本の伝統的な漆喰に薄墨色を溶かした和技の造りだが、外観は見るからにシャレた、まるで目白文化村に建っていても似合いそうなかわいい西洋館の風情をしている。佐伯祐三のアトリエ建築より、さらに5年もさかのぼる当時としては、とても人目を惹く近所では評判の、ハイカラでモダンな建物だったに違いない。

  上の記念写真は、アトリエ庭の南側で撮影されたもの。芝生の上にテーブルを持ち出し、ビールなどを並べてパーティを開いている。1924(大正13)527日、中央の中村彝が亡くなる半年前に行われた園遊会のショット。鶴田吾郎などが居並ぶ人々の背後には、椿が植えられており、さらにその向こうには尾根道に植えられたみごとな桜が繁っているのがよくわかる。泉が湧き、ふたつの池があった林泉園は、この桜のさらに向こう側に拡がっていた。

  写真には、佐伯祐三アトリエの地主である酒井億尋(のちに荏原製作所社長)の姿も見える。この園遊会は、佐伯祐三のアトリエが完成してから3年後に行われているが、あいにく佐伯は同年の1月から米子夫人とともに渡仏していた。もし下落合に佐伯がいたら、酒井に連れられて、最後となったこの園遊会に出席していたかもしれない。

  中村彝が愛した、庭の南側に植えられた椿は大きく成長し、いまでも青々と繁っている。

『落合のアトリエ』(1916年・大正5)

左の窓が台所で、右の窓は応接室のものだと思われる。

 

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