Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

 

中村彝の下落合散歩

中村彝(つね)は、もともと新宿の中村屋へ寄宿していた。ところが、相馬家(中村屋)の娘と恋仲になったのを心配した両親から、1914(大正3)に追い出されてしまう。中村は当時から、結核を罹患して喀血を繰り返していた。その後、本郷から伊豆大島へと彷徨したが、この間にも病状は進んでいったようだ。やがて、1916(大正5)には下落合へ落ち着くことになる。

下落合に家とアトリエを建てることができたのは、銀行家の今村繁三をはじめ、中村彝の作品ファンだった人たちの援助によるといわれている。当時は、目白駅から下落合側へ入ると、畑地の中にしゃれた西洋館が建つ典型的な東京市外の景色で、武蔵野の面影をいまだ色濃くとどめていた。やがて、林泉園(落合遊園地)の谷間沿いに植えられた、尾根筋のサクラ並木を西へ歩くと、右手に中村邸があった。

 上の空中写真は戦後に撮られたものだが、中村邸は建てられた当時のままだった。いや、現在でもそのままでSさんが住まわれているが、母屋はすでに使用しておらず、中村彝のアトリエのみが住宅として使われているようだ。

 

 旧・林泉園上の尾根道から、旧・中村邸のアトリエ部を見る。(ポイント@)

 外壁は何度か塗りなおされているようだが、造りやデザインは、まったく大正5年のままのようだ。色が落ち、くすんでしまった赤屋根が、かえって周囲の緑にマッチして美しい。

 

 同じく、アトリエ部の様子。(ポイントA)

 現在お住まいの方は、自宅を写真に撮られるのがお嫌なのか、道路に沿って高い塀に囲まれている。訪問者のお相手をするのに、疲れてしまわれたのだろう。レースのカーテンが見えるので、いまはアトリエのほうにお住まいのようだ。

 

 

 ほとんど周囲の木々に隠れて、母屋をはっきり見ることができない。(ポイントB)

 ふつうに道を歩いていたら、まったく気づかずに通りすぎてしまうかもしれない。この裏のお宅が、ちょうどいま新築の建て替えを行っている。

 

 

 すでに、母屋が使われなくなってから久しいようだ。(ポイントC)

 ガラスが割れているのが、そのままになっている。雨どいなどは付け替えたかもしれないが、建物自体はほとんど大正期のままで、手を加えてないらしい。中村彝は、ここで息を引きとった。 奥に見えている三角のとんがり屋根が、母屋つづきのアトリエだ。

 

 

 まったく手入れがなされていないらしい、母屋の様子。(ポイントD)

 大工さんを入れれば、元のようなたたずまいにもどるだろうか? 佐伯祐三邸の場合、母屋を壊してアトリエのみにしてしまったが、中村邸の場合も保存するとすればアトリエのみになってしまうかもしれない。でも、それだけでもなんとか保存してほしいものだ。

 

 いま、旧・中村邸の北側に隣接するお宅が、新築工事のために更地になっている。中村彝のアトリエを観察するには、絶好のチャンスだろう。こんな機会は、もう二度とめぐってこないかもしれない。左下の写真が、アトリエの北面。採光のため、屋根に窓をうがっているのがよくわかる。(ポイントE) 右下は、茨城県立近代美術館に再現された中村彝のアトリエ。当初の外壁のカラーは、こげ茶だったようだ。

 

 

 中村彝は、下落合へ引っ越してきた当初は、付近へ写生散歩を試みている。彼は佐伯祐三とは異なり、「下落合」という地名を使わず「目白」と題した作品をいくつか残している。もともと肖像画や静物が得意な中村だったが、「大島」シリーズなどを観ると、風景を描くのも決して嫌いだったわけではなさそうだ。画板を抱えた中村彝の姿を、当時の下落合の人々はよく目にしていたのかもしれない。

 

 

 旧・中村邸の前は、急激に落ち込んだ崖線となり、典型的な谷戸地形となっている。(ポイントF)

 泉がそこかしこから湧き、いくつもの池が存在していた。明治期には「落合遊園地」、大正期からは「林泉園」と名づけられて、住民たちの憩いの場となっていた。いまは、低層マンションが谷間を埋めつくしているが、桜の老木はところどころに残っている。

 

 目白通りからピーコックストア横を入り、七曲坂へと抜ける鼠山道を南へとたどると、左手に旧・林泉園の上へと抜ける尾根道がある。(ポイントG)

 このクネクネと曲がりくねった道に面して、中村彝邸は建てられた。当時は、目の前に林泉園の森が繁り、清流が流れる絶好のロケーションだったろう。家とアトリエ建設を支援したパトロンたちは、当然、病気の回復を願って、空気がきれいで風光明媚なこの地を選んだものと思われる。

 

 七曲坂からつづくこの鼠山道も、中村彝は散歩したのかもしれない。(ポイントH)

 写真の背後が七曲坂で、このまままっすぐ進むと、当時の清戸道(現・目白通り)に出ることができる。上の空中写真にも見られるが、大正期は畑地や原っぱ、雑木林が多く、その中に東京市外の別荘や大邸宅が点在しているような風情だった。

 

 やがて、七曲坂の上にさしかかると、木立を透かして新宿方面のパノラマが眼下に拡がっていただろう。また、坂の右手には、大嶌久直(陸軍大将)子爵邸が見え、左手は大倉家のうっそうとした、手つかずの武蔵野の森に覆われていたはずだ。坂の途中までおりると、当時はまだ大きかった氷川明神の敷地が見えてくる。境内には、まだ茶店も出ていたかもしれない。

 そして、七曲坂の右手を見やると、おそらく中村彝は下のような景色を目にしたのだろう。

 

 

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