Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

簡易スキー場まであった文化施設

目白文化村が“新しい”のは、売り出しにともなう媒体広告の表現でも同様だ。それまで、ベタ記事風の掲載が多かった不動産広告だが、目白文化村の売り出し広告は異色で、いま風に表現すると全3段の画期的な新聞広告を制作している。それまでには見られない新しい感覚のデザイン・レイアウトを採用した、不動産広告の嚆矢といってもいいかもしれない。

1923(大正12)63日、東京朝日新聞に掲載された「目白文化村土地分譲」(第二文化村売り出し)の広告には、次のようなボディコピーが書かれている。

位置 山手線目白駅より府道を西に約十二丁、目白駅より文化村迄乗合自動車の設けあり。市内電車予定線停留所より南へ約二丁。

環境 山の手の高台、西に富士を眺め展望開裕。学校は新築落合小学校へ約一丁、目白中学、学習院、成蹊学園、女子大学、武蔵野高等学校、早稲田大学等、十五丁内外。周囲に百五十戸の府営住宅あり。日用品の購入至便。

設備 高圧地下電気、瓦斯、水道、完全下水、道路(幹線三間、支線二間)、倶楽部、テニスコート、相撲柔道の文化的道場・・・

第一文化村および第二文化村が売り出された当初は、クラブハウスやテニスコート、相撲柔道館が各1件ずつしかなかったが、時代を経るにしたがってさまざまな施設が拡充されていくことになる。また、おそらくは箱根土地()の地所ではない、目白文化村に隣接した空き地なども活用され、テニスコートを増設したり野球場などに使われたりした。

上図は、文化施設がもっとも充実した時代の目白文化村の姿だが、より正確にいうなら、この時代にはすでに箱根土地本社は移転し、改正道路(山手通り)の工事がすでに始まっていた。

文化村内には、テニスコートが3ヶ所見えるが、このほかにも隣接した空き地にはコートが造られていたようだ。また、利用者がほとんどいなかった不人気の相撲・柔道館は、中央のテニスコートに隣接して存在した。だが、ほどなく閉館してテニスコートが拡張されている。

佐伯祐三が昭和の初期(1926年ごろ)、目白文化村の風景を描いた『下落合風景』という作品が落合第一小学校に残っている。数年に一度、聖母坂の地域センターや新宿歴史博物館で展示されるので、わたしも何度か実物を見たことがある。

絵の中では、テニスをする文化村の住民と思われる男女が78人描かれているが、周囲の景色から推察してこのテニスコートは、上図の中でいちばん左下にある施設、第二文化村のいちばん外れにあったコートと思われる。あとの2ヶ所のテニスコートは、いずれも住宅街のまん中にあったので、昭和初期にはすでに周囲には家々が数多く建ちならんでいたはずだ。

おそらく、左図のような角度から、文化村の外(新宿方面)の空き地や雑木林が残るあたりの眺めだろう。

 

また、このテニスコートの手前、魚屋や青果屋、日用雑貨店が並ぶ小さな商店街の向こう側には、整地しただけの草野球場があった。1943(昭和18)914日には、目白文化村住民と陸軍軍楽隊チームとの対抗試合が行われている。(実際には、早大の戸塚球場が予定されていたが使えず、立教大学の長崎グラウンドで行われたようだ) 文化村の中で行われていたコーラスサークルの縁で、陸軍の軍楽隊とのつながりができたのだそうだ

文化村チームは、選手補強のために早稲田大学と慶応大学からバッテリーを連れてきているが、結局試合には勝てなかった。東京六大学野球はとうに廃止され、この直後には早大の安部球場で“最後の早慶戦”が行われるような状況だった。世の中はサイパンやテニアンの「玉砕」が報じられて、「撃チテシヤマム」の戦時色に染められていたのに、なんとものん気な目白文化村の姿だ。また、陸軍といっても元音楽家の集まりである軍楽隊はカラーがまったく異なるようで、平気で「敵性スポーツ」である野球を楽しんでいたようだ。

この野球場の北東、第四文化村のわきには、前谷戸の急斜面を活用した簡易スキー場もあった。雪が降ると、文化村の子供たちや大人が集まって、スキーやソリ遊びに興じていたという。現在でも、落合第一小学校の南側には急斜面が残っていて、当時の面影をしのばせている。

 

■参考文献およびご協力

『淀橋區全図』内山模型図社 1941(昭和16)

『新宿区新宿区役所 1987(昭和62)

『地上楽園への挑戦』財界展望新社 1970(昭和45)

『「目白文化村」に関する総合的研究1/2巻』 住宅総合研究財団 198889(昭和6364)

『目白文化村』日本経済評論社 1991(平成3)

目白文化村にお住まいの人々

 

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