Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

「前谷戸」と目白文化村の変遷

目白文化村は、妙正寺川が南を流れる「前谷戸(まえやと)」と呼ばれた、深い谷間の高台に開発された。このあたりは武蔵野台地の最東端にあたり、この前谷戸にもたくさんの湧水地があった。『江戸名所図絵』四巻の「落合惣図」を見てみると、東隣りの不動谷と同様に大きく谷間が入り込んでいるのがわかる。

源氏雲に隠されて、残念ながら形状はよく確認できないが(源氏雲を多用するのは画家と彫師の手抜きです)、谷間は左(西)のほうへ斜めに大きく切り込んでいる。また、江戸末期(1859)の切絵図(下図)を見ると、前谷戸にはほとんど人家はなく、丘の上はすべて田畑と雑木林で被われていたのがわかる。前谷戸の右(東側)には、いまの聖母坂や西坂のある不動谷が見え、一方左手(西側)には目白学園のある大原の広い台地、葛ヶ谷村が拓けている。

江戸初期から麦畑が多く、不動谷のさらに右手()には将軍家の「御留山」(鷹狩り場)があり、麦を食い荒らす鳥を捕まえることが禁止されていた。しかし、あまりに被害がひどいため、このあたりの農民たちが、関東総奉行へ鳥刺し禁止の緩和を再三にわたって陳情している。訴えをうけた関東総奉行が鳥刺しを認可するのだが、それを知った家康が奉行を解任してしまった逸話が残されている。

上記の地図は、1911(明治44)のもの。白いところが住宅地になっていて、緑が手つかずの雑木林、黄色く塗られたところが田畑となっている。すでに所番地が全域にわたってふられ、全体が「落合村」と記載されている。前谷戸の地名は中央に、かろうじて「字前谷戸」と小さく字(あざな)で読み取れる。

目白文化村の販売は、1922(大正11)6月の第一文化村から始められたが、わずか半年でほぼ完売している。当時としては、かなり人気のある住宅地だったようだ。つづいて、翌年の第二文化村は発売開始から1年で、全区画の72%が売れている。自然豊かな環境で、快適な文化生活を送ることが推奨された「田園都市」ブームからか、目白文化村は短期間で販売を終えた。

以前にも紹介した、1941(昭和16)の地図。1911年の明治地図の、30年後の姿だ。全体が住宅地となり、田畑はほとんど姿を消した。

すでに目白文化村は第四文化村までの分譲を終え、第一文化村と第二文化村の脇に、工事中の山手通り(環状6号線)が見えている。この山手通りの工事が始まる前に、箱根土地()の本社ビルは移転し、レンガ造りの建物は取り壊されている。

1947(昭和22)の地図。目白文化村は、1945(昭和20)の敗戦直前、下落合駅から中井駅周辺に点在した中小の工場を狙った、B29の焼夷弾による絨毯爆撃を受け、第一文化村と第二文化村の中央部が焼失している。この空襲については、また別のページで詳しく書きたい。

上図はほとんど敗戦直後の目白文化村で、山手通りはいまだ工事中で開通していない。地図上には、「文化村」の文字が初めて登場している。あえて「目白」が付けられていないので、この時期あたりから「落合文化村」と人々に呼びならわされるようになったようだ。このときの住所表記は、まだ下落合34丁目のままだった。

1987(昭和62)の目白文化村。1967(昭和42)より、住所表記が中落合および中井に変更されている。新たに十三間通り(放射7号線)が開通し、文化村はまっぷたつに分断された。工事が進むにつれ、道路にかかった文化村の家々は土地を道路公団に売却するか、十三間道路の先の練馬区あたりに公団が用意したらしい代替地へと移転していったようだ。

山手通りができる際は、「非常時」の戦時下でもあり反対運動などありえなかったが、十三間通り(放射7号線)が開通するときは、環境問題や住所表記の変更も含めてさまざまな異議が住民たちから唱えられた。現在でも、住環境の保全運動は活発だ。

■参考文献

『江戸名所図絵』四巻斎藤月岑/長谷川雪旦1836(天保7)

『分間江戸大絵図』 須原屋茂兵衛蔵版 1859(安政6)

『東京府豊多摩郡落合村』 逓信協会 1911(明治44)

『淀橋區全図』 内山模型図社 1941(昭和16)

『新宿区詳細図』 新宿区役所 1947(昭和22)

『新宿区新宿区役所 1987(昭和62)

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