Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

目白文化村の造成

 

 

 

目白文化村は、1967年までの住所表記だと下落合3丁目から4丁目にあたる、前谷戸(まえやと)と呼ばれた谷間から見上げる高台に造成された。現在の住所は、中落合24丁目にかかり、ほんのわずかだが中井2丁目に入り込んでいる。上の写真で、宅地の前部が鋭角な斜面となっているのがわかるが、これが前谷戸とよばれた谷間の崖線だ。

そこかしこから泉が湧き出て、この写真には写っていないが左手に大きな池があり、おそらくは箱根土地株式会社の本社23階から眺めた、大正12年ごろの目白文化村(第一文化村)だろう。いまは谷間が埋め立てられ、ちょうどこの箱根土地の建物の位置には山手通り(環状6号線)が走っている。

 

 

テキスト ボックス: 清戸通り(目白通り)

 

上記は、1941(昭和16)の地図だが、赤いの位置から、上記の写真は撮影されたと思われる。地図を仔細に眺めてみると、山手通りがまだ工事半ばだが、泉からの流れはそのまま残っているのが見てとれる。当時、目白文化村は東京府が明治末に開発した、清戸通り(目白通り)沿いに展開する純和風平屋建て住宅、「府営住宅」に囲まれていたのがわかる。だから、見なれない街並みの文化村が出現したとき、周囲の住民が驚愕したのだろう。

 第四文化村のすぐわきに落合第一小学校があり、そのさらに右手の聖母坂沿いには聖母病院と、下落合駅前の西坂高台にある徳川家別邸が見える。目白文化村を横切るように、すでに放射7号線(十三間通り/新目白通り)が戦前から計画されていたのがわかる。

 

 

 

 上記が、現在の地図だ。第一文化村(1922)、第二文化村(1923)、第三文化村(1924)、第四文化村(1925)の順番に販売された。ただ、第五文化村(1929)の存在を指摘する本もあるが、実際に販売された資料は残っていない。おそらく、第二文化村ないしは第四文化村の売れ残った区画を、改めて第五文化村と称して売り出したのではないかと想像されている。

そして1967(昭和42)、目白文化村が開発されてから45年目に十三間通り(新目白通り)が開通し、目白文化村は第一文化村と第二文化村の間を、まっぷたつに分断されることになる。

 

■参考文献

『淀橋區全図』 内山模型図社 (1941)

『新宿区新宿区 (2004)

『地上楽園への挑戦』 財界展望新社 (1970)

『「目白文化村」に関する総合的研究<1><2>』 住宅総合研究財団 (198889)

『目白文化村』 日本経済評論社 (1991)

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