Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

 

九条武子の下落合散歩

「下落合散歩」とタイトルをつけているが、今回は下落合における九条武子の面影を偲んでみたい。1927(昭和2)の秋、下落合で脱稿した『無憂華』が爆発的に売れ始めたのを機に、同年1023日、丸の内東京会館において出版記念パーティーが開催された。なんと、九条武子が亡くなるわずか3ヶ月前のことだ。

発起人は与謝野晶子をはじめ、三宅やす子、清浦奎吾、望月圭介、徳富蘇峰、菊池寛、渡辺とめ子の面々だった。

  赤い矢印が九条武子。ほかに出席者は、下村宏、根津田鶴子、高楠順次郎、久米正雄、大谷紝子、戸沢錦子、三條千代子、小川せき子、津軽照子、津村錠子、片山ひろ子、岡本かの子、佐々木信綱、横山大観など、そうそうたるメンバー約70名が出席した。

  は、『無憂華』によせた序文。

 

  9歳、はおそらく30代の九条武子。9歳の写真は、関西在住時に撮られた写真だろう。髪を稚児輪(ちごわ)に結った彼女はとてもかわいらしいが、いまから見るとどうしてもシノラーだ。

 

  は、自筆の色紙では便箋に書かれた原稿。いずれも、下落合時代に書きとめられたものだ。筆でも万年筆でも、流麗な筆記は変わらない。いかにも、当時の華族らしい品のよい女筆さばきをしている。色紙の歌は当初、彼女が埋葬された築地本願寺の墓石横に建立された、歌碑に使われたもの。歌碑は現在も築地本願寺に残るが、九条武子の墓は、築地本願寺和田堀廟(杉並区永福)へと移されている。

    おおいなるもののちからにひかれゆく わがあしあとのおぼつかなしや

  また、江東区にある「あそか病院」は、『無憂華』の巨額な印税で建設されたものだ。

 

 

は籐椅子で読書をしながら、自宅の庭でくつろぐ九条武子。左下の写真も、下落合753番地の自宅庭にて。これらの写真が撮られてからほどなく、不帰の人となる。

すでに体調を崩していたのか、面立ちがまったく冴えない。は、昭和2年の自画像。

 

 

 

  九条武子は、都合5回も北海道を訪れている。よほど、北の大地が気に入ったのだろう。の写真は、羊群(ようぐん)に囲まれて立つ九条武子。髪型や表情から、おそらく1927(昭和2)の最後の北海道旅行だろう。石狩川流域の神居古潭(カムィコタン)を訪れた彼女は、「たぎろう波ましろう白う岩にちる 神居古潭のくもれる真昼」と詠んでいる。

  また、彼女はアイヌ語にも興味をしめした。後志(シリベシ)の積丹(シャコタン)岬の伝説にからみ、「おぢやれさ、おぢやらんせよ、浜辺へおぢやれ、浜にやはまなす花ざかり、ハイケワ、ハイケワ(『無憂華』所収)と、詩歌人らしくアイヌ語がもつ音律の美しさに強く惹かれたのかもしれない。

 ※おそらく、ハイカラ(haykar)=「踊ろう」の意味だろう。彼女の耳には「ハイケワ」と聞こえたのかもしれない。

 

  野ゆき山ゆきゆきくれて

  たどきもしらずさまよへる

  旅びとあはれいづくまで

  まよへるおのがまなこもて

  まよへるおのがあゆみもて

  さとりの岸にいたるべき

                 (『無憂華』より)

  『無憂華』所載の、有名な「野ゆき山ゆき〜」の一節だ。は彼女の死後、実業之日本社が作った歌碑建設の広告。右下には完成予想図までが描かれている。だが、実際にはデザインにかなり変更が加えられたようだ。

 

 

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