Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

下落合の鋳成神と荒神

落合地区には、稲荷や庚申塔が数多い。江戸期に豊穣神として勧請された稲荷を除き、由来が古いものをピックアップすると、残ったところは川沿いに位置する地点が多いことに気づく。古代に、カンナ流しと呼ばれる手法で川砂鉄を集め、大鍛冶(タタラ/砂鉄卸し)や小鍛冶(鍛鉄作業)が随所で行われていた可能性がある。

目白という地名も、どこの地域を指すのか現在の住所表記からは曖昧だが、タタラや鍛冶が盛んに行われたこのあたり一帯を、古くからそう呼んでいたのかもしれない。古墳からは多くの鉄製品やその痕跡が見つかっているものの、タタラ跡や火床跡を暗示する銑滓やヒ滓が見つかった記録は、わたしの知りうる限り存在しない。

おそらく、下落合の横穴古墳群と同様に、どこかの住宅地の地下に眠ったままなのかもしれない。江戸期の切絵図に、流域の稲荷や庚申塔の位置をポイントしてみると、下落合のまったく違う姿が浮かび上がるようだ。

目白稲荷

 

藤森稲荷

 

庚申塔

 

庚申塔(猿田彦命)

 

氷川稲荷(属社)

 

 

氷川明神女体社の北側・鎌倉古道沿いにある庚申塔。

 

この石塔自体は、1816(文化13)に建立された記録があるが、それ以前からなんらかのいわれがあったことはまず間違いない。鎌倉古道(雑司ヶ谷道)の分岐点で道標も兼ねているので、鎌倉時代よりも前に、ここになんらかの奉神が鎮座していたのかもしれない。

正面に彫られているのは青面金剛、足元には三猿(見ざる聞かざる言わざる)が配してある。コウシンあるいはコウジンという音を、庚申と「猿」に変化させてしまった仏教の影響が色濃い。三猿が彫られた庚申塔には、別に猿田彦命<サルタビコノミコト>と結びつけられた神道系のものもある。もちろん、後世の付会だ。

 

 

氷川女体社の属社には氷川稲荷が奉られている。

 

氷川社の境内の北側に、こじんまりとした属社がある。その中に、氷川稲荷は奉られている。属社というのは、新たな神を奉るとき、本来そこに古くからあった神を移動させて、本殿を造営する際に祟らないように築かれる祠だ。

氷川明神女体社は、由来も不明な古い縁起の聖域だが、櫛稲田姫命を奉るときに、それ以前から存在した稲荷(鋳成神)を属社へ封じたと思われる。

 

 

目白稲荷は省線開通時に川岸から移動された。

 

目白駅の西側にある目白稲荷は、本来、学習院のキャンパス内にある血洗池湧水地Click!あたりから流れ出た、深い渓流のほとりに古くから建っていた。田畑を開墾することが困難な渓谷に、豊穣神であるはずの稲荷が存在すること自体がそもそも不自然だ。

明治期に省線電車(山手線)が開通し、目白駅が造られるとともに、いまの地へ移転させられている。

 

いまの都電早稲田駅あたりから、神田川(平川)の沿岸をさかのぼると、左手()の旧高田馬場跡に水稲荷が鎮座し、右手には出雲の素戔嗚尊<スサノウノミコト>を奉った氷川男体社を目にすることができる。

さらに、神田川が妙正寺川と落ち合うあたりに、素戔嗚の連れ合いといわれる櫛稲田姫命<クシナダヒメノミコト>を奉る氷川女体社が姿を現す。そして、背後の鼠山山頂へとつづく「七曲坂」には、旅人を次々と襲っては食っていたという大蛇(おろち)の伝承がいまに伝わっている。

目白駅

 

高田馬場駅

 

妙正寺川

 

水稲荷●

 

氷川男体社●

 

神田川

 

●氷川女体社

 

鼠山▲

 

七曲坂

 

日本でもっとも優良な砂鉄を産出し、いまでも日本で唯一、日本美術刀剣保存協会が現役でタタラ場(砂鉄卸し)を運営している出雲地方。そして、斐川*の流れを抱く、荒神谷遺跡をはじめ付近から発見された古代出雲の多数の銅器や鉄器群…。

果たして、斐川の上流へさかのぼっていった素戔嗚が櫛稲田姫と出逢い、ヤマタノオロチを退治した物語は、この下落合の谷間にも同様に伝承されていたのだろうか?

 

*「斐川」は「斐伊川」と表現されることがあるが、斐川(ひかわ)の表記および音が本来。

母音の「イ」音で終わる地名などに、後世になって「伊」が入れられたケースが数多い。紀国(きのくに)が、紀伊国(きいのくに)と呼ばれるようになったのも新しい。

 

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