Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

 

目白・下落合横穴古墳群の発見

鑑識とともに駆けつけた戸塚署の刑事は、現場検証のとき「殺人事件」の可能性も考慮して、残念なことに2号墳の人骨をすべて採集してしまった。つまり、もともとどのような配置で遺骸が置かれていたのか、学術的な正確さではわからなくなってしまったのだ。しかし、『落合新聞』の竹田助雄氏が詳細に観察していたので、玄室の内部配置をかろうじて復元することができたらしい。(写真下は新宿区が撮影した、1960年前後の空中写真)

 

上の写真は、瑠璃山へのぼる薬王院脇の大正期に造られた坂道()と、瑠璃山山頂から新宿方面への展望()

左のモノクロ写真は、目白・下落合横穴古墳群を発見した直後の写真。作業員たちは呆然とたたずみ、警察の到着を待っている状態と思われる。掘削現場のパワーショベルは後退したのか、ブルトーザーしか写っていない。

 

パワーショベルで破壊されてしまった1号墳。調査が始まったときは、ほとんど玄室の奥壁しか残されていなかった。

手前の人と比べて、横穴古墳の大きさがよくわかる。アーチ型の玄室の天井高は、最大で2mほどだったという。4つの古墳の中では、この1号墳とすぐ南側にある2号墳が最大だったとみられている。

 

ほとんど無キズな3号墳の発見は、調査団を狂喜させた。切道の長さは10m弱、羨道(玄室への入口道)の長さは0.8m。玄室の高さは1.64mと、12号墳に比べて規模が小さかったことがわかる。

切道の床面には、一面に粒のそろった玉砂利で舗装されていた。また、玄室への入口である羨道には、大きな石がいくつも置かれて玄門をふさいでいた。

 

玄室の中は、川原石と思われる玉砂利がすき間なく敷き詰められ、遺骸を安置したと思われる中央部は、特に小石が整然ときれいに並べられていた。

写真(上・左)は、玄室を羨道部から撮影したもの。床一面には玉砂利が敷きつめられ、墳壁の表面も非常にていねいに掘られているのがよくわかる。

3号墳の全体断面図を見ると、古墳の構造がよくわかる。玄室の床面、玉砂利の敷かれた中央部分が灰色に塗られているが、ここに遺体を安置したと思われる。2号墳とは異なり、3号墳の埋葬者や副葬品は、ほぼすべて朽ち果てていた。

2号墳から見つかった人骨は、頭蓋骨、寛骨、大腿骨、上腕骨などだが、かなり風化が進んでおり、いまから13001500年前のものと鑑定された。1300年前というと奈良時代にかかっているが、1500年前だと明らかに古墳時代の中後期だ。新宿区が建てた記念プレートには、8世紀の奈良時代ごろと記載されているが、わたしがもっと古いのではないかと考えるのは、この人骨の年代測定の大きな幅=ぶれと、人骨と同時に出土した鉄大刀の古さからだ。

新宿歴史博物館には、「大地に刻まれた歴史」のコーナーに鉄刀の現物が展示されているが、それをよく観察すると、奈良期の直刀に比べて形態がやや古いように感じる。むしろ南関東や群馬県、栃木県の渡良瀬流域の古墳群から発見される、古墳時代中後期の直刀に近似している。茎(なかご)の部分が朽ちてしまい、その形状を確認できないのが残念だが、もし茎や頭(かしら)にあった装飾を確認できたなら、目白・下落合古墳群の築造年代はあと数百年あがるのではないか。

もっとも、8世紀に埋葬された被葬者が、100年以上にわたって祖先から大切に伝承されてきた貴重な鉄大刀を、自分の代で副葬したとも考えられ、一概に判断はできない。ひょっとしたら、かなり研ぎ減っていたために副葬品として選ばれた可能性さえある。

現在でも、刀剣は代々たいせつに伝承されていることを考えると、副葬品の年代から単純に古墳築造年代を推定するのは、とっても危険だ。

■参考文献

『新宿区・図書館資料室紀要』 1967(昭和42)

 

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