Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

甘泉園から椿山界隈のサークル

 

 焼け跡が生々しい、戦後すぐの空中写真で下戸恂k部を見わたしてみると、すぐに現在の甘泉園公園の南側、幕府の高田馬場の北側にあたる一帯に、大きなサークルを発見できる。また、昭和初期まで「バッケ下」という地名が残っていた亮朝院の西側にも、規模はやや小さいながら、やはりサークル状の痕跡を観察できる。これらは、崖線上の平地、あるいは崖線下の平地部分に造られた、大きな円墳の痕跡なのかもしれない。

 甘泉園公園にあるサークルを拡大してみると、よりきれいな正円であることがわかる。北側は、ちょうど神田川へと下る斜面際まで接し、南側は現在の公務員住宅の南境界、高田馬場の外周道路あたりにまで接している。隣りの戸怦齒ャが、すっぽりと収まってしまいそうなスケールだ。また、バッケ下にあるサークルは、現在はすっかりマンション群の下になってしまっているが、戦争直後は畑地の面影が残っていて、地表面が随所に表れている。

 目を神田川の北側に転じてみると、空襲で一面の焼け野原が拡がっているが、サークル状のフォルムはどこにも発見することができない。この学習院下から高田一帯は、神田上水(神田川)の洪水常襲地帯だったので、もともと人家も少なかった。神田川の南側、下戸塚のバッケ地帯にくらべ、大量の土砂を築き上げる古墳などの築造に、古代から不向きだったのではないか。

 上の空中写真は、目白台から旧・肥後藩下屋敷、そして椿山あたりの空中写真。肥後藩下屋敷(現・新江戸川公園)の庭園北側には、いまの目白通りに接して「鶴塚」と「亀塚」があったという伝承が残っている。幕末の1857(安政4)に作成された、金鱗堂・尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にも、細川家下屋敷の北側に、道路へはみ出るようなふたつの塚が採集されている。

 だが、戦後すぐの空中写真では、同所にたくさんの家屋が建てこんでいて、地表面を観察することができない。幸い空襲をまのがれた一帯だ。昭和初期の、陸軍航空隊が撮影した空中写真でも同様、すでに地表面は見えなくなっている。ひょっとすると、江戸時代に清戸道(目白通り)を拡幅した際、すでにふたつの塚はいくらか削られていたのかもしれない。さらに、目白通りの拡幅により、鶴塚と亀塚は大半が道路の下になってしまった可能性もありそうだ。

 

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