Chinchiko Papalog「気になる下落合」オルタネイト・テイク

 

氷川明神女体社のかたち

 

下落合にある氷川明神を、須原屋茂兵衛蔵版『分間江戸大絵図』で見てみると、その境内が明らかに特異なかたちをしているのに気づく。近くの薬王院や、藤森稲荷などの敷地と比べてみても、その幾何学的なフォルムがいっそう目立つ。下の切絵図は、1859(安政6)の下落合だ。

右手に見えるのは、酒井下総守求次郎の下屋敷(隠居屋敷)で、いまの下落合2丁目(近衛町あたり)だ。その南に藤森稲荷があるが、現在では御留山のある北側に30mほど移動している。一面に田畑(麦畑)のように描かれているが、南から北(絵図では下から上)へ向けて武蔵野台地(河岸段丘)のせり上がった斜面であり、実際には田畑ではなく武蔵野原生林のままのところが多かったはずだ。

氷川明神*の由来は不明だ。少なくとも平安期以前から、なんらかの聖域として存在していたことが確認できる。鎌倉期には、雑司ヶ谷へと向かう鎌倉古道(雑司ヶ谷道)が境内に沿って造られている。氷川社の由来記によれば、孝昭天皇(紀元前400年代)に建立されたことになっているが、明らかに後世の付会だろう。しかし、由来が不明なほど古くから聖域として存在していたことは確かなようだ。

*神社(じんじゃ)は、明治政府が1874(明治7)に、各天神・明神・権現・稲荷・八幡などへ強制した呼称なので、ここでは江戸期以前の千年以上にわたって伝承されてきた、社または明神という名称を尊重する。

 

■拡大図(上が東)

5世紀中葉〜末期タイプの前方後円墳

上記の豊島郡絵図の一部を拡大して、東を上にした図版が左だ。氷川社の左側を、雑司ヶ谷へと向かう旧・鎌倉古道に削られながらも、明らかに釣鐘型をしているのがわかる。いわゆる前方後円墳の、56世紀にかけて出現したタイプに近似している。

上部から流れてくる川は、現在の学習院大学にある血洗池周辺を水源とする流れだが、氷川社へぶつかると不自然に「く」の字型へ大きく折れ曲がり、円を描くような曲線を経て現・神田川や妙正寺川へと注いでいく。左側の古道も、もともとは水堀があった…とみるほうがしごく自然のようだ。また、氷川社の底辺部分も、絵図では田畑に塗られているが、細い道が通っている。

 

 

 

■千葉県の三条塚古墳(6世紀)

 

しかし、現在の氷川明神は、右側を十三間通り(新目白通り)に大きく削られ、また本殿や拝殿の位置も江戸期とは異なるので、切絵図に示されたようなフォルムを、もはやどこにもとどめていない。また、境内もほぼ平坦で、古墳の築山や前方部の盛り上がりも残ってはいない。

 

ただし、神田川河畔から見ると境内全体がかなり高くなっており、大きく盛り土されていたのが見て取れる。左の写真で明瞭なように、十三間通りからだとほぼ2m近くの盛り土が確認できる。

また、上空から氷川明神を見てみると、明らかに釣鐘型のフォルムが確認できる。十三間通りができる前の航空写真を探してみた。以下に掲載した写真は新宿区役所が撮影した1960年前後、氷川明神の真上からの姿だ。特にカーブに沿ったところは、家屋がそれぞれちぐはぐな方向を向きながら建っているのがわかる。(提供:新宿区役所)

 

七曲坂

 

 

でも、江戸期の切絵図に記載された形状が前方後円墳っぽいから…だけでは、氷川社が古墳だった証拠にはまったくならない。そこから出土したものがない以上、つまり考古学によるストレートな検証ができない以上、文献史学からのアプローチによる「証拠集め」となってしまう。さて、その証拠は見つかるだろうか?

 

「そこは昔、どのような場所だったのか?」という調査には、主に4つのテーマが設定される。すなわち、@古文書A地名B伝承C周辺の環境4つだ。まず、@古文書から探ってみよう。

 

@江戸名所図絵の氷川明神

すぐに頭に浮かんだのが、天保7(1836)のこの古書だった。さっそく下落合のページをめくると、氷川明神女体社があった。しかも図絵なので、当時の境内の様子をうかがい知ることができる。それを見ると、神田川に面した鳥居の向こうに、はっきりと築山が見て取れる。(下図赤囲み参照) この図絵の視点、つまり氷川社を見ている視角は、上記古墳形状イラストの赤い「」からの方角だ。

 

■第四巻/天権之部「落合蛍」

また、同図絵には氷川明神女体社について、以下のような解説文が付属している。なお、( )の中は著者註。

 

「同(高田馬場より)、申酉の方、田島橋より北、杉林の中にあり。祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)一座なり。これを女体の宮と称せり。同所薬王院の持なり。同所より鼠山の方へ上る坂を七曲坂といふ。曲折あるゆゑに名とす。この辺りは下落合村に属せり。」

おそらく古代から江戸期末まで、千年以上にわたり女神のみ奉られていたのに、のちに明治政府の気まぐれ官僚が、安易に(または無理やり)男神をあと二柱押しつけたのが、これを見ると明白だ。それはともかく、絵図と説明文から解釈するかぎり、築山は杉林で覆われていたのがはっきりとわかる。

 

A丸山という地名

従来、「丸山」とか「○塚」と付けられた地名には、近くに古墳が必ず存在すると言われている。特に「丸山」は、横穴式古墳でも方墳でもなく、丸い築山をともなう前方後円墳・帆立貝式古墳・円墳がほとんどだ。関東で最大級の前方後円墳として有名な、港区芝の増上寺にある前方後円墳も「丸山」という地名が残り、「芝丸山古墳」と呼ばれている。下落合では冒頭、須原屋版の切絵図でも明らかなように、氷川社の右に大きく「丸山」という地名が掲載されている。

B妖怪・お化け・祟り伝承

古墳が残る土地の伝説として、「ここに古墳がありました」という伝承はまずありえない。死者を怖れ、死の穢れや祟りを嫌うことから、妖怪やお化けなどの伝説に転化して、当の古墳に近づかないよう伝承されるケースが数多く存在する。下落合にも、妖怪・お化け伝説が数多く存在している。いちばん古いものは鎌倉時代からのものといわれ、この氷川社のごく近くが舞台だ。

■丸山のがしゃ髑髏

現在の、「御留山」の下あたりを舞台にした妖怪譚。戦乱で死んだ人々が、大きな髑髏となって襲いかかるという妖怪で、室町時代に退治されたことになっている。

■七曲坂の蠎蛇(うわばみ)

これは氷川社に間近の伝説。七曲坂には大昔から、松の大木ほどもある大蛇(おろち)がいて、鎌倉古道を歩く旅人を襲っては食べていた…というものだ。これも、のちに退治されたと伝えられている。航空写真で七曲坂を見ると、確かに蛇のかたちに似ている。

C川に臨む南斜面の環境

最後に周辺の環境だが、これはもういうまでもなく発掘された「目白・下落合横穴古墳群」の前庭のような位置に、氷川社は鎮座している。川沿いの南斜面にあたる土地は、古代から古墳が造営されやすい環境にあったと思われ、東京に残る前方後円墳のほとんどがこの立地を採用している。多摩川沿いに展開する、田園調布古墳群・野毛古墳群・等々力古墳群なども、みなこの条件に適合している。

さて、これで「氷川明神女体社が前方後円墳だった」…と断言できる証拠はそろったかというと、まだまだこれだけでは仮説の域を出ない。少なくとも、出土物そのものか、あるいは出土物があったという伝承ないしは記録が残っていれば、おそらく90%以上の確率でそうだと思う。

上記に列挙した「証拠」は、あくまでも状況証拠にすぎない。傍証を多数積み上げれば、文献史学では証明されたことになるが、まだ現状では足りない。限りなくその疑いが濃厚だ…ぐらいの感触で、70%ほどの確率だろうか? 最後に、氷川社が前方後円墳だと仮定して、現在の周囲の状況と重ね合わせたイラストを掲載しておこう。

 

 

 

 

■参考文献

『分間江戸大絵図』 須原屋茂兵衛蔵版・安政6(1859)

『江戸名所図絵』 斎藤月岑/長谷川雪旦・天保7(1836)

三条塚古墳俯瞰図版(富津市教育委員会提供)

 

 

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