Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

 

さまよえる不動谷

江戸期に「不動谷」の名称がはっきり見えるのは、1859(安政6)に作成された、須原屋茂兵衛蔵版の「分間江戸大絵図」だ。丹念に取材をして地名や町名をひろったものか、その位置関係やかたちの表現も精巧にできている。では、時代を追って「不動谷」の“動き”を見ていこう。

現在の道路や学校の位置を、赤点線などで描きいれてみた。「薬王院持諏訪社」と書かれたピンクの敷地の裏手が、ちょうど現在の久七坂のカーブにあたる。その西側に聖母坂があり、湧水が流れているのがわかる。戦前までプールがあり、戦後はマンションの建ちならぶ以前は下水(湧水処理)の暗渠があったところだ。その聖母坂のすぐ西側、のちの第三文化村の南の谷に、「不動谷」の名称がある。

目白文化村の位置を見ると、現在の山手通りがかよう向こう側(第一文化村)には、すでに「前谷戸」の地名が採集されている。また、落合第一小学校の南にある谷間には、地名が付いていなかったのか、あるいは一般名称の「谷戸」と呼ばれていたものか、小川の流れが描かれているだけだ。この流れが、箱根土地本社の敷地から湧き出た泉の水流。

1909(明治42)の測量図。不動谷の記載位置は、江戸期とほとんど変っていない。ただし、江戸期の絵図もそうだが、本来の「不動谷」の位置は、この名称が記載されている東側の谷間を指している。「前谷戸」の位置も変っていない。

1916(大正5)の修正地形測図。いきなり「不動谷」の位置が、落合第一小学校の下にある谷間、西側へ400mも移動している。だが、前谷戸の位置に、まだ変化はない。

1921(大正10)の修正地形測図。「不動谷」の位置は、のちの第四文化村のあたりに移動したまま固定してしまったようだ。「前谷戸」の位置には、「不動園」の文字が見える。堤康次郎は、この地図の初版を見て「不動園」という名称を考案したのだろう。

また、『目白文化村』(日本経済評論社)に記載されている1921年の実測図だが、このあたりの版を参照したものと思われる。だが、“椎名町寄り”の第一文化村の位置に「不動谷」と書かれた地図は、大正期の地図を通じて存在していない。

1925(大正14)の豊多摩郡落合町市街図。各地名には字(あざな)が付けられ、「不動谷」は本来の位置から大きく移動したまま、「字不動谷」となった。

ここでまた、不可解なことが起きている。「前谷戸」が、本来の位置から500mも南へ下がった丘陵地帯へ移動し、「字前谷戸」となってしまったのだ。これでは、本来の地形の意味からすると「後谷戸」となってしまうのだが、逓信省の測量部署はそんなことにおかまいなく、机上で適当に地名を移動させたのだろう。こうして、「不動谷」と「前谷戸」の位置をめぐる混乱は、現在までずっと尾を引くことになる。

1926(大正15)の下落合事情明細図。「不動谷」も「前谷戸」も、本来の場所から400500mも大きくずれたところで固定されてしまった。

この記憶が現在でも地元に残っているから、たとえば新宿歴史博物館の資料などの記述と、いまの地元の人たちとの土地勘が、チグハグで噛み合わずに混乱するのだ。もう一度確認しておくと、「不動谷」とは現在の聖母坂あたりを意味した谷間であり、「前谷戸」とは前面に第四文化村の谷間(無地名)を望む尾根筋(第一文化村)界隈の地名だ。

1929(昭和4)の豊多摩郡落合町全図。字(あざな)はとれているが、地名として「不動谷」や「前谷戸」は残っている。改正道路(山手通り)と十三間通り(新目白通り)の計画が、ブルーの点線で描きこまれているのが見える。

1933(昭和8)の淀橋区全図。字(あざな)の名残だった地名も取れ、下落合三丁目の記載だけがされている。以後、「不動谷」や「前谷戸」といった地名が、地図に載ることは二度となかった。

 

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