Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク |
密集する上落合のサークル群
上落合一帯に見られる数多くのサークルを観察していると、いくつかの特徴に気がつく。そのひとつは、川の流れがひとつの“軸”になっていることがうかがえる。川に近づくにつれて、サークルの密度は濃くなり、川から離れるにつれてサークルの数は減っていく。サークルの粗密は、明らかに川が基準となっていると思われることだ。 また、巨大なサークルの周囲には、いくつかの小さなサークルが付属するように観察できる点だ。サークル群がすべて古墳だとすれば、素直に解釈すれば、これは明らかに「陪墳」の形態と想定することができる。埼玉(北武蔵勢力)や群馬(上毛野勢力)の古墳にも、数多く類例を見ることができるが、首長(王)あるいは有力者が死亡して大きな墳丘が築かれると、その周囲を取り囲むように、あるいは場合によっては墳丘に重なるように、中小さまざまな古墳が後世に造られていく。王の親族や身近な家臣だった人々が死ぬと、王墓の周辺へと築かれる墳墓だ。 さらに特徴的なのは、戸恤面から下落合、上落合と神田川沿いのサークルを観察してくると、上落合地区のサークル数がケタ違いに多いこと。下落合の氷川明神社(丸山)周辺、あるいは上戸塚(現・高田馬場3〜4丁目)にもサークルは多いが、上落合の圧倒的な数量にはおよばない。つまり、妙正寺川と神田川とに挟まれた、古くから「落合」と呼ばれるこの一帯が、古墳が集中して築かれるなんらかの聖域だった可能性がある。川と川に挟まれ、ゆるやかに地層が堆積されてきたこのなだらかな一帯が、墳丘の築造には非常に向いていたのかもしれない。・・・と同時に、肥沃で平坦な上落合地区は、鎌倉期以前より、早くから田畑に開墾されていた可能性も高く、早期に墳丘は崩されていたのではないかということだ。 では、広い上落合一帯を、東と西に分けて見てみよう。サイトへ掲載するにあたり、画像データをGIFファイルに変換しているので、不鮮明になってしまうのが惜しいところだ。
東京メトロ東西線の落合駅近く、山手通りと早稲田通りが交差する東側に、大塚古墳(円墳)があった。写真右は、明治末の大塚古墳。鳥居や拝殿の大きさからすると、直径40〜50mの円墳だったことがわかる。現在はビルやマンションの谷間になっていて、当時の面影は皆無だ。(方向E) この道路の左手、山手通りをまたぐようにして古墳があった。 なお、空中写真には、大塚古墳の名残りであるサークルが、くっきりと写っているのがわかる。発掘調査により、はっきり古墳だと規定された、上落合では数少ない事例だ。 |
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