Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

下落合はミステリーサークルだらけ

江戸時代、田畑ばかりのこの一帯を空中から撮影していたら、果たしてどのような写真が撮れていたのだろうか? 地表がかなり開墾され、土地の起伏も馴らされしまい、上には家屋が建ち並びはじめていたにもかかわらず、明治から大正にかけてもしばらくは、当初の面影をかなりとどめていたに違いない。でも、飛行機からの撮影はされなかった。

そして、皮肉なことに唯一、1945(昭和20)815日以前には敵国だった米軍機から、初めて鮮明な空中写真が撮られている。ちなみに、下落合一帯の空襲にはすべて焼夷弾が使われており、爆弾は使用されていない。だから、サークルが爆撃跡ではないことは明らかだ。サイトへ掲載するにあたり、写真画像データをJPEG形式に変換したため、残念ながら鮮明さはかなり失われているが、それでも不可思議なサークル状のかたちは、随所に確認できると思う。

下の写真は、1947(昭和22)の下落合1丁目から2丁目、4丁目あたり。一面焼け野原だが、そのぶん地表面の細かな陰影を詳しく観察することができる。氷川明神社の土台地盤である釣鐘型の盛り土までが、巨大なサークルに呑みこまれるように位置しているのがわかる。ちょうど、氷川明神社のあるあたりから東側一帯に、江戸期から昭和初期まで「丸山」という字(あざな)が残されていた。

西武電気鉄道の線路をこえて、上落合側を見てみるとサークルの密度がもっと濃いのがわかる。道路工事で移転する前の月見岡八幡社の境内(現在の八幡公園あたり)は、出土物などから古墳(円墳?)だったことが確認されているが、本格的な調査がなされたわけでもなく詳細は不明のままだ。でも、こうしてみると古墳は八幡境内だけでなく、サークル状のフォルムが随所に点在しているのが認められる。

また、この写真の下部(南西)には、江戸期から昭和初期にかけて「大塚東」「大塚西」という字が残されていた。写真上部の、現・せせらぎの里公園から落合下水処理場となっている地域も、サークルの密集地帯だ。多くのサークルは現在、ビルや住宅が密集した地下に埋もれてしまっている。

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