Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク

浅野邸討ち入り

いまは、聖路加病院が建つ敷地一帯は、300年ほど前には浅野内匠頭の上屋敷があったところだ。千代田城内で、吉良上野介が斬られて重傷を負った事件は、またたくまに江戸市中へと伝わり、日が暮れるころから築地にあった浅野邸の周辺へ、吉良を慕う殺気立った町人たちが次々と集まりだした。

 

 

聖路加病院(旧館)

現在は、聖路加タワーのほうへ病院施設が移転している。建物の左手に、芥川龍之介が生まれたミルク牧場、および浅野赤穂藩上屋敷の記念プレートが建っている。

上の切絵図で、「×」印が浅野邸のあったところ。1863(文久3)には、中川修理大夫の上屋敷となっていた。軽子橋の下には、現在は埋め立てられてしまった築地川が流れ、右の水面は江戸湾に近い大川(隅田川)の河口。川中には佃島と、埋め立てが進んだ石川島(人足寄せ場)がある。川沿いに隣接している町場は、舩松町一丁目〜三丁目あたり。(もちろん、元禄時代ではなく江戸後期の姿だが…)

おそらく、打ち壊し(ぶちこわし)に参加した町人たちの中には、吉良とは縁もゆかりもない、幕府の抑圧政策に反発して日ごろのうっぷんをこのときとばかりに晴らしに来た連中もいただろう。この近辺の町人ばかりでなく、当時の吉良邸があった呉服橋、そしてかつての吉良邸があった鍛冶橋あたりからも、事件を知った大勢の町人たちが血相を変えて集結したのかもしれない。

 

 中井駅の南西に、吉良上野介が眠る萬昌院功運寺は現存している。右の切絵図でも明らかなように、江戸時代後期の大江戸(おえど)境界線(朱引き)のすぐ外側に位置している。元禄時代に葬られたのは、当時は三田にあった功運寺。赤穂浪人が葬られた泉岳寺の墓と、きわめて近い場所に葬られたことになる。

功運寺はのちに、牛込の萬昌院と合併して現在地へと移された。吉良家の菩提寺である、愛知県幡豆郡吉良町の華蔵寺へも分骨されたらしい。この寺には、ほかに歌舞伎の悪役で有名な水野十郎(充郎)左衛門、役者絵や相撲絵で一世を風靡した歌川豊國、小説家の林芙美子などの墓もある。

 

■参考文献

『日本橋南之絵図』 尾張屋清七版(再版)1863(文久3)

『分間江戸大絵図』 須原屋茂兵衛蔵版・1859(安政6)

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