Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

ワイナリーがあった国際聖母病院のあたり

1931(昭和6)12月、第三文化村の東端に「マリアの宣教者フランシスコ修道会」によって国際聖母病院が建設された。敷地面積4,250坪、壁の厚みが60cmもある鉄筋コンクリート6階建てで総床面積が800坪と、当時は東京でも有数の大病院のひとつだった。

同修道会が日本で活動をはじめたのは1898(明治31)で、本格的な総合病院の建設はこれが初めてだった。当初は、内科・小児科・外科・皮膚科・泌尿器科だったが、翌年には産婦人科、1933年には耳鼻咽喉科が設置されている。開設時は、市役所や警察、各地のカトリック教会が発行したチケットがあれば、診察はすべて無料だった。建物の設計はドイツ人のマックス・フィンデル、施工は山村力松建設会社などだった。下の写真は、久七坂をのぼりきった下落合の尾根筋から見た、1931(昭和6)の建設当初の国際聖母病院。(記念絵はがき) 背後に拡がる家々の屋根が、森に囲まれた第三文化村だ。(方向@)

国際聖母病院が誕生したことと、目白通り沿いに並ぶ商店街の充実、濃い林間に住宅が散在する好環境、さらに下落合駅まで徒歩56分という便利さから、第三文化村は目白文化村の中でももっとも人気のある地域となっていった。だが、戦時中の第三文化村はかなり緊迫していたようだ。開戦前夜、都内の外国人宣教師や神父、シスターたちが同病院へ集められて監禁され、周囲を憲兵隊によって包囲・監視されていた。中には米国人もいて、憲兵隊の巡察を避け、まるで「アンネの日記」の日本版のような生活を送っていた。

1945(昭和20)413日の空襲で、第三文化村の損害は目白文化村の中ではもっとも少なかったが、これは米機が国際聖母病院のある周辺への爆撃を、意識的に避けたのではないかという説もある。(その後、そうではないことが判明した。聖母病院の屋上には、焼夷弾ではなく250キロ爆弾が直撃していた) 第三文化村の北部が燃えたのは、525日の目白通り沿いに行われた爆撃によるものだ。下町の病院が爆撃で次々と焼失したため、東京に大規模な空襲があると、負傷者は焼けていない聖母病院へ次々と運ばれてきた。敗戦前後には、米軍がパラシュートで食料や医薬品を同病院へ投下している。(当初は、現・日立目白クラブの学習院昭和寮を聖母病院と誤認して、支援物資を投下していた)

戦後の第三文化村は、先の利便性が逆に作用した。戦災で焼けた北部を中心に、土地の細分化と集合住宅の建設がつづき、1970年代に入ると焼けなかった区域にまでアパートやマンション建設が進むことになる。

上は1931(昭和6)に印刷された、国際聖母病院のポスター「聖母病院下落合風景絵図」。右下には「淀橋区下落合二丁目」の表示が見えるが、現在は中落合二丁目に住所表記が変更されている。先にも記したが、1965(昭和40)の変更以来、わけのわからない「中落合」や「中井」の地名が気に入らず、「下落合」へもどりたいと考えている住民の方はとても多い。

そこは山手だから、日本橋や佃のように中央区役所へ怒鳴りこんだり、千代田区にいたっては区長宅へ押しかけては変更を撤回させる・・・なんてことはなかったのだろう。第二文化村の大手企業の社長夫人が、東龍太郎東京都知事(当時)へ面会したり、区役所へ代表が陳情したり・・・というような記録は残っているが、「地元のことを知りもしねえで、好き勝手に地名をいじるんじゃねえや。おとといきやがれ、べらぼー(大バカ)野郎」と、役人を吊るし上げることもなかったようだ。もし、中落合や中井が「下落合」のままだったら、おそらく12丁目ぐらいまである東京でもっとも大きな“町”になっていただろう。

ポスターの左側にある建物が聖母ワイナリー、つまり聖母病院のワイン醸造所だ。上の楕円()の中にも描かれている。このワイナリーと右手の病院とを結ぶのが、中央に描かれている「シベリア鉄道」と呼ばれた長大な渡り廊下だ。冬期に、この廊下を歩いてワイナリーへ行くのは、さすがのシスターたちも嫌がったという。

病院の背後に描かれているのが、第三文化村の家並みだ。このポスターの絵でもそうだし、実際の写真を観察してもわかるが、目白文化村の象徴である鋭角なとんがり屋根が、第三文化村の屋敷には少ない。むしろ、なだらかな勾配の屋根をもった洋風住宅が多いことに気づく。だから、高原の保養地のような風情・・・という印象が生まれたのだろう。

 

左の写真は、第三文化村から聖母病院のある聖母坂へと抜ける道。(方向A) 聖母病院敷地のすぐ手前までが、第三文化村の区画だった。写真でいうと、右手のマンションがとぎれる先までということになる。左手の塀のお宅も区画内で、この家の北側に隣接して佐伯祐三のアトリエがある。この道を突き当たって左へ行くと目白通り、右へ行くと下落合駅へと出られる。

写真右は、1932(昭和7)の目白通り。まだ拡幅が行われておらず、清戸道と呼ばれたころの面影が残っている。中央に見えるのは、堤康次郎が作成した目白文化村の絵はがきで「駅より文化村迄 乗合自動車の便があります」と書かれた、目白駅発の乗合自動車(バス)

 

1948(昭和23)の聖母病院。方向@と、ほぼ同じポイントから撮影されている。背後の尾根筋に拡がる第三文化村とともに、戦災にも焼けず病院機能は健在だった。ワイナリーに隣接して新たに建てられているのは、聖マリグリット養老院の建物(中央2階建て)と思われる。

この写真が撮られた年の夏、目白文化村をはじめ下落合全域を震撼させる出来事が起きている。豊島区椎名町にあった帝国銀行(現・みずほ銀行)椎名町支店で、行員たちが「防毒消毒」と書かれ東京都のマーク入りの腕章をした男に、青酸化合物を飲まされて大量に毒殺される事件が発生した。いわゆる、「帝銀事件」だ。そのときの被害者は、次々と聖母病院に運ばれてきて、院内は戦時中に負傷者が運びこまれたとき以来の混乱だったという。

 

尾根筋から下った、谷間を縦断する道路。第三文化村の東端の道だ。(方向B)

道の両側は、70年代の半ばぐらいまで古い屋敷が残っていたが、次々と樹木が伐られ、アパートやマンションなど集合住宅へと建てかえられていった。駅や病院、商店街も近く、ディベロッパーにはかっこうの再開発地域に映ったのだろう。

正面に見えるのが、徳川邸のある西坂がかよっている山。左手は20mほどで、聖母病院の敷地と隣接している。

 

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