Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

古い屋敷が連なっていた第三文化村

わたしがこの界隈を歩くようになった70年代の半ば、第三文化村には数多くの古い屋敷が連なっていた。それらの屋敷は、大正末期に造られた邸宅ばかりだったようだ。第三文化村は、1945(昭和20)413日の文化村空襲でも、被害がもっとも少なかった地域だ。そして、ここは目白文化村の中でも、もっとも緑が多かった区画として知られていた。住宅街というよりは、むしろ森の中に屋敷が点在している、どこかの高原にある別荘地のような風情を醸しだしていた。この濃い屋敷森のおかげで、第三文化村の3分の2は延焼をまぬがれている。

第三文化村の売り出しは1924(大正13)、関東大震災の翌年に始まっている。現在では山手通りをはさんで、まるで別の住宅街のようになっているが、もともとは箱根土地本社を中心として北東に位置し、道路1本ですぐにも歩いていける距離感だった。全体が5,902坪と、第一文化村よりもやや狭い面積だが、第一・第二文化村に比べ整地や区画割りがかなりおおざっぱに行われたらしい。開発期間に余裕がなかったせいか、あわてて整地・区画割りされた様子がうかがえる。それは、前年の関東大震災により、下町から山手への引っ越しニーズが急速に高まったためと考えられる。でも、そのおかげで多くの木々は伐採されず、豊かな森を形成することになった。写真下は、国際聖母病院の敷地から見た193132(昭和67)の第三文化村。(方向@)

当初は51区画の敷地が売りに出され、すぐに完売したようだ。1坪あたり5080円と、ほぼ第二文化村なみの販売価格だった。区画割りの平均面積は115坪と、第二文化村よりはかなり狭いが、第一文化村に比べるとほんの少しだが広めになっていた。やはり他の文化村と同様、堤康次郎は生活インフラの整備に注力したらしく、電気・ガス・水道・下水道が全戸に完備されている。また、昭和の初期には第三文化村に隣接して国際聖母病院(マリアの宣教者フランシスコ修道会)が建設され、下落合停車場にも近く、目白通りの商店街ものびてきていたため、4つの文化村の中ではもっとも至便な地域となった。

現在の第三文化村は、下落合駅へと向かう尾根筋の道と、文化村に隣接する佐伯公園(佐伯祐三アトリエ)の一画を除いて、ほとんど当時の面影はなくなってしまった。70年代に、このあたりの光景を写真に収めておけば・・・と、いまさらながら悔やまれる。なお、第三文化村の旧・目白会館には、上落合へ引っ越す前の小説家・武田麟太郎や、第二文化村へ転居する前の矢田津世子が住んでいた。

箱根土地本社のある方角から、第三文化村へとさしかかる入口。左手が旧文化村だが、緑はあるものの建物はすべて戦災で焼けた。(方向A)

この十字路の手前左側には、うちと懇意にさせていただいているG邸がある。厳密にいえば第三文化村内ではないが、戦災にも奇跡的に焼け残り、数年前まで大正期の見事なお屋敷を構えていた。お祖母様が亡くなるとともに、相続税の関係から屋敷は取り壊され、敷地を切り売りされてしまった。

いまでも変らないのは、毎年いただく見事な柿の実の美味しさで、屋敷の庭にあった柿の大木はいまでも健在だ。

 

写真上(方向A)に写っている道をはさんで、右側の住宅街は類焼をまぬがれている。左の写真はそのうちの1棟。何度か修復されたようだが、昭和初期に建てられた住宅のようだ。(方向B)

緑の屋根にベージュの壁色が、周囲の緑に映えて美しい。また、途中で高さを剪定されている木々も、当時のままだと思われる。

また、写真上(方向A)の左折する道の左手も、屋敷が3棟焼けずに残った。いずれも、建物が濃い緑で囲まれていたせいで、炎が燃え移らなかったとみられる。

 

第三文化村の北辺の道。第三文化村の地図で、正方形に近いかたちをした区画は、ほとんどすべての家々が焼けている。このあたりも、古い住宅は1棟も残っていない。(方向C)

この道をまっすぐ進んで突き当たる直前の左手、北辺の道から1本入った第三文化村内に、「目白会館・文化アパート」が建っていた。そこには、上落合へ転居前の小説家・武田麟太郎や、第二文化村の武者小路実篤邸近くへ転居する前の矢田津世子が住んで執筆していた。

 

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