Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

妙正寺川へと下る坂道にて

前回に紹介した、旧・淀橋区下落合4丁目(現・新宿区中落合4〜中井2)の南東側斜面と同じように、中井駅から妙正寺川へと下っていく南斜面も、目白文化村の建築やライフスタイルの影響を色濃く受けている。ロッジ風の西洋館を建てた吉屋信子と、頻繁に行き来をしていた林芙美子は、当時の周囲の様子や風情を次のように述べている。

  

私は冗談に自分の町をムウドンの丘だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ。(『わが住む界隈』より)

上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)、この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る。(『落合町山川記』より)

  

この文章が書かれた1933(昭和8)9月、林芙美子は近くの中野警察に共産党への資金提供容疑で検挙されている。片足を左翼運動に突っ込みながら、もう一方では目白文化村を頻繁に訪れては、裕福な知人のアトリエで盛んにキャンバスに向かっている。

徐々に戦争へと転がりはじめた暗い世相とは対照的に、第一文化村や第二文化村から拡がりはじめた、明るく開放的な洋風住宅が建ちならぶ風景と、大正デモクラシーの余韻が漂う、それまでには見られなかった闊達で新しいライフスタイルへの憧れは、東京じゅうから実に多くの人々を落合の丘へと惹きつけることになった。

中井駅から上落合にかけて、妙正寺川の流れに沿って住んでいた人々には、小説家の尾崎翠、壺井栄、吉川英治、細野孝二郎、林房雄、平林彪吾など、詩人では壺井繁治、中野重治、松下文子、安藤一郎、柳瀬正夢、野川隆、川路柳虹など、劇作家では村山知義、俳人では松本義一などがいた。

中井駅へと下る二の坂の途中にある、昭和初期の洋風住宅。北側の道路に面して、天井までの高いガラス窓が全面に設置されているので、おそらく元は画家(のち旧・金山平三邸と判明)のお宅だと思われる。(方向@A)

左手には、日本獅子吼会の建物があるが、現在はコンクリート造りに建てなおされている。この屋敷の反対側は、西武電気鉄道や妙正寺川、はては新宿方面まで見わたせる絶好のロケーションで、戦後もしばらくは、まるで「雛壇」のように西洋館のとんがり屋根が建ちならんでいた。林芙美子がいうところの、「ムウドンの丘」の風情だった。

 

上記の西洋館の1段下の「雛壇」に建つ、やはり昭和初期の純和風住宅。(方向B)

西洋風の住宅に比べ、和風住宅が残っているのはめずらしい。山手通りの騒音はここまではとどかず、この一画は昼間でも静まり返っている。

中井駅に近いせいか、この南斜面も戦後、急速に再開発が行われた。70年代後半には、目白文化村(第二文化村)の余韻といったような雰囲気が、まだそこいらじゅうに残っていたが、80年代に入ると家の建てかえが急ピッチで進められ、「ムウドンの丘」の面影はほとんど見られなくなった。

 

それでも、当時の面影をしのばせる屋敷が、いくらか点在している。いずれも、1930年代に建てられたお宅とみられ、目白文化村の屋敷よりは10年以上新しい。

 

右は、中井駅上の山手通りから下落合駅方面を眺めた、1950(昭和25)の風景。左側に見える丘が、前回紹介した旧ギル邸のあった丘から、現在の下落合へと連なる段丘。目白文化村は、この丘陵のさらに左手に位置している。西武線の電車が、まるで都電のように1輌編成なのがめずらしい。写真では見えないが、右手に妙正寺川が流れている。(方向C)

左は、2005年の同じ撮影ポイントから写したもの。ビルやマンションが建てこんで、左手の丘陵がほとんど見えなくなっている。

キャンバスに向かう29歳の林芙美子。(1933年撮影) 第二文化村()の知人宅アトリエで、油絵を盛んに描いていたころのショット。窓外には棕櫚の大木が見え、いかにも文化村の西洋館らしいたたずまいを見せている。林芙美子の装いや、木々の葉の繁りかたからみて、1933年の夏ごろに撮られたようだ。しかし、このあとの94日に共産党への資金カンパをめぐって、中野警察署に逮捕・拘留されることになる。片や左翼運動を支援し、片や目白文化村のリッチな生活にあこがれた彼女は、その複雑な心情をエッセイや日記に残している。

その後、この写真は五ノ坂の下、下落合2033番地にあった西洋館の自邸内、夫の手塚緑敏のアトリエであることが判明した。

 

1927(昭和2)ごろの妙正寺川。現在とは異なり、ほとんど小川に近い流れだ。川端の親子は、母親は和装だが子供たちはすでに洋服を着ている。

大正期、農家の田畑が残るこのような風情の中を、第二文化村からスカートをはいた女性たちが、坂道を颯爽と下りてきたのだから、当時の住民たちの驚きはひととおりではなかった。

 

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