Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

東斜面から眺めた第二文化村界隈

第二文化村が開発されるとともに、文化村の周辺、特に中井駅へと出られる南斜面や、下落合駅側の東斜面もつぎつぎと宅地化されていった。そこで新たに建設された家々の多くが、目白文化村の街並みを模倣して造られていく。第二文化村の住宅の大半が、1923(大正12)から翌年にかけて建築されたのに対し、周囲の家々は大正末から昭和初頭にかけて建てられていった。

外観のデザインから間取りまで、目白文化村の家をそのまま移設したのではないかと思えるほど、そっくりな屋敷が建設されていった。また、建物ばかりでなく、ライフスタイルやさまざまな生活習慣も、第二文化村の外周地域がもっとも早くから多大な影響を受けている。大正期にスカートをはいてパラソルをさした、文化村の女性が坂道を下って妙正寺川界隈へ散歩にやってきただけで、周辺の住民たちが驚愕したという記録が残っている。

ここに、1枚の写真が残っている。工事が予定されている改正道路(山手通り)をはさんで、下落合駅寄りの東側、北西に向いた山の斜面から第二文化村方向をとらえた、1940(昭和15)前後の撮影と思われる写真だ。前面に拡幅工事が予定されている改正道路の、大きな排水管らしきものが写りこんでいるので、このあたりまで工事が進捗してきつつあった、昭和10年代前半と思われる当時の様子を伝える貴重なショットだ。(方向@)

写真の右手上あたりが第二文化村の南西部、ちょうど商店街のあるあたり。左手が、西武電気鉄道の中井駅へと下りられる斜面だ。中央に移っている西洋館は医院らしく、現在でも開業している熊倉内科医院、または青柳医院の戦前の姿なのかもしれない。ただし、現在は拡幅された山手通りにより、両医院とももう少し斜面側に存在している。

上の空中写真(1947)が、先の写真の撮影ポイントおよび角度だ。上空から見ると、第二文化村の南辺(商店街)あたりに、長屋商店のような屋根がつづいているのがわかる。また、先の写真では、寺院建築の屋根しか認められなかったが、空中写真では日本獅子吼会の逆卍型の屋根もはっきりと写っている。空中写真からもわかるように、この斜面にあった家々はほとんどが戦後まで無キズで残っていたが、7080年代にそのほとんどが建てかえられてしまった。

現在では、日本獅子吼会の南側に位置する、ほんの一画の屋敷だけが、かろうじて当時の面影を残しているにすぎない。

左の写真が、ほぼ同じ位置から第二文化村のある丘方向を写したもの。背の高い住宅やマンションが増え、一見、斜面という感じがしなくなっている。手前が、山手通り。(方向@)

上の地図は、1925(大正15)の落合町土地利用図だ。第一/第二文化村ともに、家々が建ち並んでいるが、昭和10年代のショットに写りこんだあたりには、まだ田畑や雑木林が多く見える。改正道路(山手通り)は着工されておらず、当時は影もかたちもない。ところどころに住宅の記載が見えるが、いまだ農家のほうが多かっただろう。

この地図の中で、外国人の邸宅だった「ギル邸」と書かれた位置あたりに建っているのが、昭和初期の建築と思われる下のお屋敷だ。1947(昭和22)の空中写真にも「撮影ポイント」と記した下のほうに、その屋根がはっきりと見えている。(方向AB)

このお宅は、第二文化村の丘に面した東側丘上に建っており、建築当時は第一文化村から第二文化村までがパノラマのように見わたせただろう。目白文化村にあこがれた住人が、そっくりな風情のお屋敷を建てて、ここに引っ越してきたのかもしれない。昭和の初め、目白文化村の販売はすでに終了していた。

 

上の邸宅を南へと進むと、急な坂道となる。正面には新宿の高層ビル群が林立して、見晴らしがとてもいい南斜面の住宅街だ。(方向C)

この南斜面には、「見晴坂」や「六天坂」と呼ばれる、新宿区でも屈指の名坂がかよっている。それらの急峻な坂の周囲には、いまでも古い和風建築を見ることができる。

この坂道を下りきって、右に曲がれば中井駅から目白学園の坂下まで抜けられ、左に曲がると下落合駅方面へと出られた。現在では、下落合駅まではかよっておらず、途中に十三間通り(新目白通り)が貫いている。

この丘の上、または坂下に住んでいた人たちには、評論家の神近市子や青柳優、歌人の半田良平、小説家の藤森成吉、宮本百合子、鹿地亘、武田麟太郎などがいた。

 

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