Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

1947年の目白第四文化村

空襲時、目白文化村にいなかった人たちが、帰宅しようと下落合駅から西坂を登り、高台にあって焼け残った落合第一小学校の姿を目にしたとき、「ああ、助かった!」と思ったそうだ。だが、小学校をすぎて、工事中の改正道路ごしに目白文化村の惨状が眼前に拡がったとき、呆然自失となった方が少なくない。

第四文化村も、尾根筋に近い建物は焼け残っているが、谷間へと下りるほど焼け跡が目につく。ちょうど、この上空あたりでB-29は進路を西北西に変えたのだ。第四文化村近辺の家々は、半分ほどが焼失している。写真には、改正道路で削られているとはいえ、簡易スキー場の跡地がはっきりと写っている。

また、会津八一が目白文化村へと引っ越す前の自宅、秋艸堂(しゅうそうどう)があったあたりも焼け残っている。第一文化村への引越しさえ考えなければ、多くの貴重な美術品や資料、蔵書などが焼けないですんだかと思うと、ちょっと残念だ。

 

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