Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

1947年の目白第三文化村

「第三文化村は焼けなかった」という話を、地元の複数の方々から聞いていた。1980年の初め、聖母坂のマンションへと引っ越してきたわたしは、このあたり一帯を何度も散歩しているが、確かに古い屋敷ばかりが目立って、「焼けなかった」証言の信憑性は高いと考えていた。でも、最近は「北側は焼けたんじゃないか」という声を耳にするようになる。

ご覧のとおり、北側の正方形に近い一帯は焼け野原になっていた。ただし、国際聖母病院はもちろん、第三文化村の南側3分の2が無キズで戦後を迎えていたのがわかる。この焼けなかった尾根筋、および谷に面した第三文化村の屋敷街から、のちのち「第三文化村は焼けなかった」という印象が形成されたのではないか。

焼けた正方形部に隣接した、うちと家族ぐるみで親しくさせていただいているG邸は、奇跡的に炎上していないのが見える。また、同じ正方形部の東側には、1928(昭和3)30歳で亡くなった佐伯祐三の自宅やアトリエも、かろうじて焼け残っている。当時は、夫人がひとりで住んでいたはずだ。こうしてみると、いわゆる濃い屋敷森に囲まれた邸宅が、強い火勢にもかかわらず延焼をまぬがれているのがよくわかる。

 

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