Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

第二文化村の商店街

第二文化村の商店街は、中井駅へと下る南斜面の最上部にあった。商店街といっても、表通りの清戸道(目白通り)を控えていた第一文化村とは異なり、小さな店舗が数軒ならんでいただけだ。第一文化村の同志会(生活協同組合)からもやや離れていたため、日用品を売る雑貨店が開店していた。また、生鮮食料品の魚屋や青物屋も店開きをしていた。もちろん、文化村の住民はここへ買い物に来るわけではなく、町内を“御用聞き”が巡回して注文をとっていた。

現在も、「一の坂」上に雑貨店の小さな店舗が残ってはいるが、すでに営業はしていないようだ。この雑貨店の前の道を、第四文化村のほうへと歩いていくと、途中にも店舗がいくつかあった。以前紹介したT邸の斜向かいあたりには菓子店があり、ここでも夏場はかき氷を売っていたらしい。また、さらに簡易野球場の上あたりには郵便ポストがあり、その少し先にはタバコ屋があった。ちょうどこのタバコ屋のあたりが、現在の山手通りと十三間通り(新目白通り)交差点の地下にあたる。

山手通りを造るとき、この第二文化村の斜面を埋め立てたり削ったりしているが、いまでもその工事のときにできた崖跡を見ることができる。古い日本家屋はまだところどころに残っているが、大正期から昭和初期にかけての西洋館は、ほとんどが建てかえられてしまった。この南斜面を写した、ちょうど山手通りの工事が始まる直前、昭和初期の貴重な写真を手に入れたので、次回にご紹介したい。

この斜面にも、多くの文士たちが住んでいた。先に紹介した武者小路実篤邸をはじめ、小説家の矢田津世子、吉屋信子、大田洋子、尾崎一雄、林芙美子などの旧邸が、半径150mほどのところに散在している。

 

北へ向かうこの道の左側は、すべて戦災からは焼け残った。だが、現在は当時の建物は1棟も残っていない。(方向@)

写真の左にある交通鏡のあたりから手前が、第二文化村のテニスコートだった。落合第一小学校に残る佐伯祐三の「下落合風景」は、このあたりを描いたものと思われる。

 

 

いまも雑貨店の店舗が残っているが、営業はしていないようだ。トタン張りの建物は、古いが戦後のもの。(方向A)

この雑貨店の並びには、魚屋と青物屋が軒を連ねていた。手前の道を右へまがると、中井駅方面へ出られる「一の坂」となる。

 

雑貨店の先の坂道を右へ折れると、すぐに急な坂道となる。突き当りは、代々木や新宿駅周辺など一帯を見わたせるパノラマ眺望が一気に開ける。(方向B)

この坂道の両側も古くからのお宅が多いが、今回歩いてみるとそのほとんどが新しい建物に建てかえられていた。坂の途中、山手通りへと抜けるすぐ手前の右手に、『神楽坂』で有名な小説家・矢田津世子の旧邸(旧・下落合4丁目1986番地)があった。

上の空中写真は、1947(昭和22)のもの。だから、厳密にいえば記載されている作家たちは、ちょうど同時期にこの場所に住んでいたわけではなく、時間差がある。この写真が撮られたとき、矢田津世子はすでに3年前に亡くなっていた。

左の写真は旧・武者小路邸の斜向かいに残る、大正期あるいは昭和初期そのままの典型的な日本住宅。第二文化村の開設当初の建築らしい。(方向C)

写真に撮ると、ひっそりとしたたたずまいのように見えるが、山手通りの騒音がかなり響いてくる。大谷石による区画や門柱は、第一文化村と同様、ここでも当初のままの姿で保存されている。

 

斜面の一部は、改正道路(山手通り)の造成工事のとき、大きく削り取られている。上の写真2枚は、その削り取られたときそのままの姿をとどめる区画。左は昨年暮れ、右は今年(2005)2月末の姿。普段は緑に覆われていて、この冬期を除くと崖上に残る古い家屋の姿が見えなくなる。(方向D)

この斜面の反対側の山側(中落合1丁目)から撮影された、昭和初期の貴重な写真が残っている。次回に紹介したい。

 

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