Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

南の尾根筋にそった屋敷街

わたしが、文化村取材でもっとも残念に感じた区画のひとつが、今回の尾根筋に沿った第二文化村南辺の道だ。この道筋は、ほとんどの家々が戦災からも焼け残り、197080年代までは大正から昭和初期にかけての古い屋敷が軒並み残っていた。下落合から歩き出し、中落合2丁目の尾根を通って十三間通り(新目白通り)をわたり、この第二文化村の尾根筋をゆっくりと歩きながら中井駅方面へ下っていくのが、かっこうの落合散歩コースだった。ところが、今回まわってみたら、そのほとんどの屋敷が姿を消してしまっていた。

この道の南側は、道ひとつ隔ててすぐに中井駅から新宿方面へと傾斜した南斜面となり、目白文化村の中でももっとも眺望がすばらしい場所だった。戦前は、おそらく新宿駅や伊勢丹、三越までが一望のもとに見わたせたことだろう。そのせいか、80年代に多くの屋敷が壊されたあと、近辺に建てられたのは通常の一戸建てではなく、低層マンションやコンパクトマンションが多い。だから、街の風情がこの道筋だけ、他の第二文化村のエリアからやや乖離し、別ものとなってしまっている。たとえ古い建物が壊されて、新たに一戸建てが建設されても、屋敷森や門柱などが残るので当初の面影や雰囲気は伝わるものだが、集合住宅が建設された場合は、街の風情を根こそぎにしてしまう。

第一文化村に比べ、第二文化村の家々は敷地面積が広かったせいか、開設と同時に「個室」の概念が生まれている。当時の日本住宅では、「客間」「居間」「書斎」「寝室」「台所」の概念はあっても、家族ひとりひとりの本格的な個室は存在しなかった。夫は書斎を個室がわりに使用できたが、妻や子供たちは居間か台所にいるのがあたりまえだった。しかし、第二文化村の多くの家々には、家族ひとりひとりの個室が用意されているケースが多い。また、女中(お手伝い)部屋も広く、専用の化粧室やトイレまで備わっている屋敷が多かったため、文化村以外の家の女中さんたちから羨ましがられたらしい。

 

もうひとつ、居間や台所とは別に「食堂」の存在も、第二文化村の家々には顕著な特徴だ。それまで食堂というと、華族や大金持ちの屋敷にあってはじめて存在しえるスペースだった。ふつうの家では、食事は茶の間か居間でするのがあたりまえだった。しかし、敷地の広い第二文化村では、設計に食堂を含める住宅が数多く見られる。当時は、一般住宅に食堂があることなど考えにくい時代だ。食堂は台所に隣接して設けられる家が多く、今日ではあたりまえとなったダイニングキッチンのはしりだった。

南辺の通りを、西から眺めたところ。80年代の初めごろ、このあたりを散歩すると、石橋湛山邸の周辺と同じように、うっそうとした木々が生い茂っていた。(方向@)

左手が石橋湛山邸の並びになり、まだ濃い緑が残っているが、80年代には右手も同じような風情だった。

 

上の写真右は、1926(大正15)に建てられたM邸で、80年代の撮影。写真左は、低層マンションになってしまった現在の様子。(方向A)

中村健二が設計し、南建設が施工した。かろうじて、玄関にあった大きな樹木が、昔の面影をとどめている。洋風の赤い屋根とモルタル塗りの外壁で、一見コンクリート造りに見えるが木造2階建てだった。左の空中写真(1947)でもわかるように、この一帯は空襲の被害をまったく受けておらず、大正期の屋敷がずいぶんのちまで残されていた。

 

上の写真二葉は、左がM邸のあったあたりの現状を別角度から見たもの。右は、ほぼ同じ位置から1985年の眺めだ。(方向B)

85年当時でも、まだうっそうとした気配が残っているのがわかる。いまでは、木々が伐られて、空がポッカリとあいている。突き当りの元テニスコートのあったあたりにもマンションができ、第二文化村の中では異質な空間となってしまった。

 

Copyright © October, 2004-2005 ChinchikoPapa. All rights reserved.