Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

旧・安倍能成邸の周辺

哲学者で教育家、元文相(幣原内閣)の安倍能成も、文化村を深く愛したひとりだ。戦後、1946(昭和21)から20年間、学習院の院長をつとめ、夏目漱石の弟子としても知られている。石橋湛山と同様、日本屈指のリベラリストで、岩波茂雄がはじめた岩波書店の最高顧問にも就任している。1940(昭和15)の住民名簿に名前が見えるので、戦前の第一高等学校長をしていたころから、すでに第二文化村には住んでいたようだ。

この界隈は、石橋湛山邸の屋敷森もあり、緑がとりわけ濃い。最近の空中写真で見ると、第一文化村よりも、第二文化村のほうが樹木が豊富に残っているのがわかる。道路沿いに繁っている大木が多く、第二文化村が販売された当初に植えられた木々だ。石橋邸とは異なり、斜向かいの安倍能成邸は空襲で焼けているが、その数棟西隣りの屋敷は焼け残っている。安倍邸に間近の木々も、一度焼けたが息を吹き返したと思われる。

第二文化村の家々は、その多くが第一文化村よりも少しあとに建てられているので、より近代的な設備を備えた家が多かった。水道だけではなく、給湯器やシャワー、ウェスティングハウス社製の電気レンジや冷蔵庫など、当時の最先端をいくシステムキッチンや家電製品が、第二文化村の屋敷へ納入されている。

西洋風の外観の家々と、最先端の家庭設備とが当時としてはめずらしく、戦前は日活や松竹の映画ロケーションなどにもよく使われていたようだ。昭和初期の作品と思われる映画の題名が判明すれば、「動く目白文化村」を目にすることができるのだが、夏川静江が主演していたという以外、作品のタイトルがどうしてもわからない。

このあたりは空襲で焼けなかったエリアだが、家屋から門扉まですべて建て直されてしまっている。(方向@)

第二文化村の敷地は、第一文化村に比べて広い。大きな屋敷でも、門からかなり離れた位置に建てられていて、庭のスペースがたっぷりとられているのがわかる。写真の木々は、文化村の開設当初からのもの。

大正期の門柱と、大谷石による区画の土台がそのままのお屋敷。よく手入れされた庭が、とても美しい。(方向A)

樹木の向こうに見えている大きな邸宅が、旧・安倍能成邸。黒い鉄柵がはられているが、目白文化村の特徴である、外に向かって開放的な、来訪者にいかめしさや威圧感を与えない家造りの典型的なお宅だ。

こちらは、洋風な屋敷とはうってかわり、和風の瀟洒なお宅だ。この一画は空襲で焼けているので、戦後すぐの建築だろう。(方向B)

目白文化村では、洋風建築が多かったせいか、和風建築が逆にめずらしがられたらしい。道案内などで、「とんがり屋根で2階建ての、屋根が赤い西洋館」というと、かなりの家が該当してしまうので、「平屋建ての日本家屋の隣り」・・・といった、和風建築がここでは目印のような役割を果たしていたようだ。

写真左下は、空襲で焼けてしまったM邸。洋風住宅の合弁会社、あめりか屋が設計、建築を手がけた。建物の総面積は100坪を超える大邸宅で、1925(大正14)に完成している。

写真の門柱や敷石の様子が、方向Aの屋敷と同一なのがわかる。間取りを見ると和室洋室が半々で、まるで現代住宅のレイアウトを見ているようだ。それほど、先端をいく設計だったのだろう。玄関を入ると左手が応接室で、右手に見える窓が書生室。2階の窓は、2間つづきの子供部屋となっていた。

 

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