Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

葛ヶ谷風致地区の隣接地

『落合町誌』(1932)によれば、第二文化村の北西に隣接した葛ヶ谷一帯(現・西落合)は、昭和初期に「風致地区」として位置づけられていた。そこには、こう書かれている。

「葛ヶ谷風致地区:武蔵野の面影を維持して都会人の行楽地とするために、野方町及び落合町大字葛ヶ谷の地域二十一万四千坪にわたり、都市計画法に基づき風致地区に指定せんとするものである。付近には哲学堂、三井家墓地、城北学園、野方給水場、オリエンタル写真工業株式会社もあり、地形の変化と樹林に富み、絶好の行楽地である」

つまり、第二文化村の北西を、ピクニックができる武蔵野の一大丘陵公園にしようと計画したのだ。東京市の中でも、葛ヶ谷の風致地区指定はもっとも早く行われた。この中に出てくる「野方給水場」とは哲学堂の北側、いまに残る江古田の配水塔のことだ。1930(昭和5)に完成した通称「水道塔」は、第二文化村からもよく見えたという。文化村を模倣して、つぎつぎと西洋風の文化施設や住宅、別荘、教会、学校などが建てられた。だが戦後、武蔵野の面影をよく残したのは、風致地区の西落合ではなく、ハイカラな目白文化村でもなく、目白駅に近い下落合のほうだったのは皮肉だ。また、西落合は戦後、本田宗一郎邸があったことでも知られている。

第二文化村のこのあたりは、そんな葛ヶ谷に隣接した、たいへんおしゃれな一画だった。晴れた日には富士山がよく見え、夕日が沈む西には教会の尖塔やドームの屋根で独特なかたちをした水道塔が、住民の目を楽しませた。だが、413日夜半の空襲ではこの一画も焼けている。ちょうどこのあたりで、第二文村の火災はおさまって、北西へは延焼していない。

 

 

もともと、第二文化村の1棟あたりの販売区画は広かったが、このあたりの宅地は戦後に細分化が進行して、一般の住宅地とたいして印象が変わらなくなってしまった。(方向@)

正面と左右の家々も焼けているが、右手のお宅だけは往年の面影を一部の庭木がとどめている。ほとんどの家々が屋敷森に囲まれていたはずだが、樹木の多くは伐られてしまった。いまでは建蔽率ギリギリまで家屋が建てられ、街並みに余裕がない。

 

 

このH邸には、昔の屋敷森の一部が残っている。建物はしゃれているが、戦後のもので比較的新しい。(方向A)

戦前の建物を模して設計したのだろうか、大正期の文化村住宅にデザインがどことなく近似している。庭の造りも瀟洒で、手入れが行きとどいている。このお屋敷は、女性に人気の某流行作家のご実家だ。

 

 

この道をまっすぐ進むと、下落合教会のある通りへと出られる。(方向B)

写真左手の大きな車庫が、この一画で唯一、空襲で焼け残ったお宅だが、残念ながら最近建てかえられてしまった。十三間通りができる前は、第一文化村のオバケ道か、またはセンター通りへと抜けられた。

 

 

 

右手のとんがり屋根の邸宅あたりで、空襲による火災は食い止められた。左手の、松が突き出たお宅は焼けていない。(方向C)

正面の住宅のすぐ裏手が、葛ヶ谷風致地区に隣接している。この境界から先は、雑木林や田畑が拡がり、武蔵野の面影を色濃く残していた。

 

 

左の写真は、第二文化村のすぐ西側に隣接した葛ヶ谷風致地区。昭和初期のころの風景だ。正面奥に、水道塔の丸いドームが見えているので、1930年以降の撮影と思われる。右の写真は、葛ヶ谷配水所の現状。この水道塔は、周辺に住んだ多くの画家たちが好んでスケッチしている。現在は小さな公園の中にポツンと残っているが、内部の機能は現役で、緊急災害用の水を大量に貯蔵している。

 

 

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