Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

下落合教会のあるメインストリート

大正時代から昭和初期にかけて、この界隈は田畑や原野、雑木林が多かった。第二文化村のハイカラな住宅街を除けば、ほとんどが田園風景のままだったと思われる。敗戦直後の写真を見ても、田畑や原っぱが随所に残っているのがわかる。この第二文化村の西には、「バッケが原」と呼ばれる広大な原っぱが拡がっていた。現在の、都営住宅から目白学園あたりにかけてだ。「バッケ」というのは、関東や東北他方では「坂の急峻な斜面」の地形に用いられる。小金井の「ハケ」に通じる言葉なのだろう。

第二文化村は、宅地が600坪を超える区画もめずらしくなく、第一文化村に比べてゆったりとした区画割りが行われている。下落合教会(下落合みどり幼稚園)も、戦災で焼けてしまった600坪の邸宅の跡地に、戦後、徳憲義牧師によって建設された。設計したのは、教会の信徒のひとりだということだ。1951(昭和26)より礼拝がはじまり、つづいて幼稚園も併設されている。

当時は、周囲は一面焼け野原で、下落合駅から坂道をのぼってくると、丘の上にとんがり帽子の礼拝堂がよく見えた。目白からも見えたという話も残っている。十三間通り(新目白通り)に敷地の一部をわずかに削られ、いまはクルマの音が響くが、第二文化村を横断するメインストリートに面して建てられている。礼拝堂と幼稚園ともども、老朽化したので数年前に建てかえられた。とんがり帽子の礼拝堂時代と、ちょうど建てかえの最中に、うちのオスガキどもが連続してお世話になっている。そのときは、すでに丸尾牧師の時代だった。

この教会と幼稚園は、おもに新たな信徒の獲得と、信徒たちが利用する施設として建設されたはずだったが、むしろ信徒以外の文化村の人々に人気があった。子供の主体性を重視し、自由な発想で好き勝手に遊ばせる・・・という教育方針が好評で、文化村の多くの子供たちがここへ集まった。メソジスト教団では、それぞれの教会に個性の確立を求め、地域環境に根ざし住民と連携した活動が求められていたようだ。教会の礼拝堂や集会所は、労働組合の会合や生協活動「落合消費者の会」、放射7号線開通時の市民運動「下落合の環境を守る会」の拠点となっていた。現在でも、教会の施設は住民たちに開放されている。また、今回の「下落合みどりトラスト基金」の運動でも、パンフレットをもとに目白文化村へ告知活動をお引き受けいただくなど、園長先生をはじめひとかたならぬお世話になっている。

また、丸尾牧師の夫人は医師で、教会の近くで医院を開業されていた。わたしも風邪を引いたときに、ずいぶんお世話になったが、文化村の人たちも病気やケガで通院した経験が多いと思う。引退された丸尾先生は山梨へ転居されたが、今年も年賀状がとどきご健勝な様子だ。

なお、下落合教会の周囲には、小説家の立野信之、平林彪吾、大江賢次、翻訳家の宮地嘉六などが住んでいた。

この一画は、1967(昭和42)に放射7号線が貫通したせいで、第二文化村の“飛び地”となってしまった。(方向@)

わたしは便宜上、十三間通り(新目白通り)を挟んで第一文化村と第二文化村を色分けしているが、厳密にいうなら、この飛び地は第二文化村の区画となる。

 

十三間通りの歩道橋から見た、下落合教会の礼拝堂。(方向A) 左のモノクロ写真は、建てかえられる前の姿だ。とんがり帽子の屋根が、強く印象に残っている。右の写真は、同じ位置からの現状。現在は、大きな道路が通っているが、1967年以前は閑静でひっそりとした教会だった。礼拝堂は、通りの騒音を避けてか、いまは反対側の道沿いに建っている。

 

現在の下落合教会の礼拝堂。左手前に見えているのが、新しく建てかえられた下落合みどり幼稚園の園舎だ。(方向B)

バザーやクリスマス会は開かれるが、この教会は総体的に地道な活動で知られており、献金なども受け取らない。また、直属の信徒以外の冠婚葬祭も受け付けていない。

第二文化村を横断するメインストリート。前回掲載の写真とは、まったく正反対の方角から眺めたところ。(方向C)

左手に下落合教会の一部が見えている。また、この道の右手一帯には、文学者たちが住んでおり、頻繁に往来していた。中には、片岡鉄平と大江賢次のように、自宅を交換するようにして住んだ小説家もいたようだ。

第二文化村の北面外れに残る原っぱ。冬なので草は刈られているが、夏には腰ぐらいまでの草むらが茂り、トンボやバッタの姿も多い。(方向D)

開墾もされずに、地元の人たちから「バッケが原」と呼ばれた斜面の原っぱも、このような風情だったのだろうか。

 

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