Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

野球場があった第二文化村の南辺

第二

今回から、第二文化村の面影を散策してみる。1923(大正12)に、前年の第一文化村の売れ行きが好調なのをうけて、箱根土地はさっそく第二文化村を売り出した。第一文化村の南西に隣接した、落合台地の高台から南斜面にかけての広大な土地を買収し、第一文化村と同様に大谷石による区画整地が行われている。

でも、この年は東京の宅地開発において、重大な出来事が起きている。91日午前115844秒、関東地方を襲ったマグニチュード7.9の大地震は、死者行方不明者が推定20万人という未曽有の被害をもたらした。いわゆる、「関東大震災」だ。東京や横浜での死者の多くは、建物の倒壊による圧死と、町場の火災による焼死だった。特に横浜は、全市面積の80%が焼失している。また、震源地に近い相模湾では、葉山・逗子・鎌倉・湘南地方を最高12mを超える大津波が襲った。

だが、目白文化村における地震の記憶は薄い。大半が江戸期の埋立地である下町とは異なり、武蔵野台地の東端、落合台地の上に開発された文化村は、地震の影響をほとんど受けなかった。地震によって倒壊した家屋はゼロ、火災も発生していない。おそらく地震の揺れが、下町と山手ではまったく違っていたのだろう。落合地区全体をみても、倒壊家屋2棟、半壊家屋8棟ときわめて軽微な被害だった。ちなみに、東日本橋にあったわたしの実家は、倒壊こそまぬがれたものの、その後発生した火災(火事嵐または火事竜巻)で焼失している。

目白文化村における復興活動は、地震による被害からの再起ではなく、むしろ下町救済へと向けられた。当時、焼けなかった山手には、下町から地震難民が続々とやってきていた。早稲田大学や学習院大学など、広大なキャンパスのある高田馬場や目白にかけては、負傷者や焼け出された人たちが大勢避難してきていた。その救護活動が、この地域の人たちの活動の中心だった。いわゆる「ボランティア」という概念が日本で初めて芽生えたのは、関東大震災の救援活動からだといわれている。

第二文化村は戦後、十三間通り(放射7号線)の開通によりその一部を大きく削られることになった。第一文化村のセンター通りをはじめ、双方の文化村間は密接につながっていたのだが、現在は分断されている。だから、厳密にはここからが第二文化村だ・・・という境界線も曖昧になってしまった。とりあえず、現在の第二文化村へ行くのにもっとも多く利用されている、元野球場のあったあたりを「入口」とし、そのあたりから歩いてみたいと思う。

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南東へまるで尻尾のようにせり出した、第二文化村のなだらかな坂道。(方向@)

この右手が、戦時中に目白文化村と陸軍軍楽隊の両チームが対戦した野球場があったところだ。この坂を上りきると、下落合教会へと抜ける第二文化村のメインストリートへ出られる。また、坂の右手には武者小路実篤の旧邸があった。

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このたりは、戦災でも焼けていない地区だ。この細い道は、開発の当初はなかった。(方向A)

地図を見ると、1941(昭和16)の地図には記載がない。ただし、戦後すぐの空中写真で確認すると、すでに道が通じているので、戦時中にできたか、あるいは以前は細い私道だったので記載されなかったのかもしれない。

この一画は、濃い雑木林がそのままのかたちで残っており、林の中に家々が点在している。建築自体は戦後の新しい住宅が多いが、周囲の環境は第二文化村当初の姿を髣髴とさせる。

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庭に井戸のある、瀟洒な住宅がある。建物は古いが、おそらく戦後に建てかえられたものだろう。(方向B)

この一画は、わたしが下落合に住むようになってから、ほとんど変っていない。近くの山手通や十三間通りの喧騒が、嘘のようなたたずまいを見せている。この住宅の背後には、見事な竹林が残っている。

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十三間通りの開通で、途切れてしまった道。この道を逆方向へと歩けば、ほどなく第四文化村へ、さらに進み、途中で左折すれば下落合駅へと抜けることができた。第四文化村への入口には、いまでも湾曲したこの道の一部が、まるで離れ小島のようなかたちで残っている。(方向C)

写真の位置までくると、起伏はそれほどでもないが、十三間通り側からだとゆるやかな上りの坂道になっている。第二文化村もまた、前谷戸の台地上に拓かれた。この道の奥の角を右折すると、下落合教会通り(みどり幼稚園通り)へと出られる。

 

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