Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク |
会津八一の不運な引っ越し
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★その後、会津八一にとどく郵便物の検証から、霞坂から第一文化村までの転居Click!は一度だけであることが判明し、参照した某資料の誤りであることが判明している。 下落合に住んだ会津八一は、2回引っ越しをしている。最初に住みついて「秋艸堂(しゅうそうどう)」と命名したのは、西坂を上がりきったところを左折し、落合第一小学校手前の坂と霞坂とに挟まれた、坂の中途にある大きめの日本家屋だった。屋敷森に囲まれたこの家には、美術家で歌人、はたまた書道家で早大教授、そして坪内逍遥の愛弟子でもあった彼を慕って、さまざまな学術分野の人々が数多く参集した。1926年(大正15)まで、ここに住んでいたのが確認できる。 会津八一が、なぜ目白文化村へ引っ越そうと考えたのかはわからない。自宅で研究会を開くのに、当時の屋敷が手狭だったとも思えない。関東大震災を経験して建物の老朽化が気になったのか、あるいは裏の落合第一小学校の物音がイヤだったのか、1922年(大正11)に箱根土地によって第一文化村が売り出されると、しばらくしてから引っ越しをしている。これがのちに、取り返しのつかない不運な転居のはじまりだった。 西坂の下落合3丁目1296番地(現・中落合3丁目14)から最初に引っ越したのは、同じ3丁目1321番地、第一文化村の最南部のエリアだった。現在は、ちょうどスーパー「オリンピック」の駐車場がある前面、山手通りの下になっているあたりだ。そう、ここは昭和に入ってすぐに、改正道路(環状6号線)が通ることとなり、引っ越して5年とたたないうちに、今度は立ち退きを迫られることになった。膨大な蔵書や資料、美術品などを抱えての転居は容易でなかったに違いない。彼が何年に引っ越したのかはわからないが、1941年(昭和16)にはすでに工事中の改正道路は会津邸のあった一画を貫き、中井駅の手前まで拡幅が終わっている。※ 次に移った先は下落合3丁目1328番地、第一文化村の中央部だ。ライト風建築で人目を惹いた、広大なK邸のすぐ東隣りだった。ここで彼は、1945年4月13日の空襲を迎えることになる。 |
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左はゆったりとした勾配がつづく霞坂。(方向@) 写真上の左手が、坂の中途にあった旧・会津邸の一画。森に囲まれ、戦災でも焼けなかった。(方向A) |
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霞坂をのぼり切って左折すると、すぐ左手に落合第一小学校がある。1947年の空中写真でもわかるように、小学校は焼けていない。(方向B) この道は、西坂から連続しており、「秋艸堂」を訪れる人々は霞坂ではなく、西武鉄道の下落合停車場から西坂をのぼってくることが多かった。だから、「西坂の秋艸堂」と呼ばれるようになったようだ。 |
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会津八一が最初に引っ越した、第一文化村の現状。現在は、スーパーマーケットの駐車場となっているあたり。(方向C) 昭和に入ってすぐに引っ越しているようだが、おそらく5年とたたないうちに改正道路(山手通り)の開通計画が現実となった。同じ第一文化村内に、急いで代替地を探したと思われる。 |
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右のモノクロ写真は、旧・下落合3丁目1321番地あたりの山手通り(工事中)で行われていた、1942年のラジオ体操風景。左は、現在のほぼ同じ場所を撮影している。(方向D) 戦時中の写真手前には、舗装用の砂利を運ぶためか、トロッコの軌道が見えている。背後に写っている屋敷は、かろうじて道路計画から外れたお宅だ。空中写真を見ると、この屋敷は戦災をまぬがれたようだが、今度は60年代に十三間通り(放射7号線)の道路計画にひっかかってしまう。 |
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第一文化村で、会津八一の2番目の住居となった文化村の「秋艸堂」跡。ここで、4月13日の空襲に遭遇している。(方向E) 建物はすべて焼けたが、周囲の樹木が息をふき返して当時の面影を伝えている。空襲の火災がおさまった直後、焼け跡を掘り返す会津八一の姿が、近所の人たちに目撃されている。「ほんとうの骨董品らしくなったなあ」と、焼けた美術品のかけらを手に載せながらつぶやいていたという。 |
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