Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

吉屋信子の散歩道

吉屋道

手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦

初暦 知らぬ月日は 美しく

おそらく新春に詠んだのだろう、『徳川の夫人たち』『女人平家』などの作品で有名な、小説家・吉屋信子の俳句だ。第一文化村のこの界隈は、彼女が犬を連れて毎日散歩をするコースで、近所の人たちから頻繁に目撃されていた。当時、吉屋信子は第二文化村の外れ、中井駅へと下りられる南側の斜面に住んでいた。

吉屋信子はまた、大正期から昭和初期にかけて少女小説で一世を風靡した作家でもある。竹久夢二をはじめ、中原淳一や蕗谷虹児などの、まつ毛が異様に長い少女のイラストとともに、『花物語』や『わすれなぐさ』、『お嬢さん』などいまでも読みつがれている作品を数多く残している。その中で描かれる、ハイカラでおしゃれで洗練された山手の生活環境は、もちろん目白文化村での生活スタイルをイメージしたものだった。大正から昭和にかけて、当時の少女たちが夢みた先進的なハイカラ生活を実現している街・・・、目白文化村はそんな側面をも備えた、少女たちあこがれの住宅街でもあった。

向田邦子は、父親に吉屋作品をして「こんなベタベタしたものは読むことはない!」と怒られているが、友人から『花物語』を借りてひそかに読んでいる。「私のように戦前にセーラー服を着た女の子には懐かしい」とエッセイの中で書いているが、女学生の向田邦子にとっても目白文化村は、理想的であこがれの新しい生活環境と映っていたにちがいない。

 

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第二文化村の外れに住んでいた吉屋信子が、子犬をつれてよく散歩をした道。突き当たりは、ライト風建築で有名だったK邸。(方向@)

このあたり一帯も空襲で焼けているが、レンガ積みの門柱や玄関へとつづく階段は、いまでもそのままの家が多い。背後を進むと、山手通りへと抜けられる。

 

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上の同じ道を、反対側から眺めた様子。空襲をうける前の姿だ。ちょうどK邸の東隣りにあった、会津八一邸の門前あたりからの風景。(方向A)

右手に、とんがり屋根の西洋館が2棟つづけて建っているのが見えるが、奥の2軒目の屋根が、下のモノクロ写真(第一文化村当初の撮影)に写る、右側の屋敷だ。樹木がだいぶ大きくなっているところをみると、昭和10年代の撮影と思われる。その向こう側には下記のN邸があるはずだが、木々に隠れて見えない。

 

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上のモノクロ写真は、第一文化村の販売から間もないこの一画の様子だ。手前が写真上の道で、左側の屋敷がN邸。(方向B)

道に向かって、大きく開かれた窓が張り出しているが、当初は窓のないサンポーチだった。建築家の河野伝が設計している。

 

子供が生まれると窓を設置してサンルームに、さらにのちには子供部屋として使用されている。当時、2階建ての多い文化村内で、独特なデザインによる平屋だったのと、女中部屋がないのとでたいへん珍しがられたようだ。戦災では、浴室を残して焼けてしまった。

写真左は、N邸の現在の様子。居間に、ピンポン台が設置されていた時代があったらしい。わたしの知り合いがうかがった際に、強く印象に残ったようだ。門柱や階段が、大正期のままなのが印象的だ。屋根の傾斜角度も、大正期の旧宅を意識されてか似せたデザインにしているのがわかる。いまでもこの界隈は、戦災でも焼けなかった門柱や階段を、そのまま活用している屋敷が多い。門扉は設置されず、道路に面して開放的な造りになっていた。

 

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こちらのお宅も、道路に面してオープンなデザインになっている。(方向C)

現在は木々が植えられているが、空襲で焼ける前は、この階段のすぐ上が玄関だった。戦後、建てかえられた建物もほぼ同様のデザインだったが、再び建てかえられたいまは、ガーデンスペースを大きくとる造りとなっている。

 

 

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