Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク |
第二文化村へ抜けるセンター通り
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目白文化村として開発された住宅街は、明治期や大正初期の単なる西洋文化の輸入や模倣、あるいはキリスト教文化へのエキゾチズム的なを憧憬の域を脱して、現代につながる「和洋折衷」の新たな生活文化を創りだした、画期的なトポスとしての存在意味が大きい。これは、同時期の洗足や田園調布など、東京郊外に展開されたいわゆる「田園都市」にも共通していえることだ。建物はもちろん、日本人の日常生活あるいは生活習慣にいたるまで、西洋文化の模倣の時代から抽象と捨象を繰り返す、咀嚼・消化の時代へと移行したことを示している。 ・建物の外観と住宅の間取り ・庭の造り方とデザイン ・テーブルとイスの生活 ・洋風の水洗式トイレやシャワーバスの導入 ・ベッドのある寝室 ・台所のシステムキッチン化 ・洋風食器の使用 ・パン食の恒常化 ・午後のお茶の習慣(コーヒー/紅茶の普及) ・日曜日のすごし方 ・洋服と洋風下着の日常化 ・腕時計の使用 ・ラジオ/蓄音機の導入 ・カメラやアルバムの普及 ・西洋楽器の使用 ・高等教育への関心 ・ペン書きの日常化 ・名刺の使用 ・洋風な結婚式(キリスト教会の住宅街進出) ・誕生パーティの導入 ・クリスマスの定着 ・花束贈答の習慣 ・洋風花器の使用と新しい活け方…etc. 今日の日本では、なんの変哲もない日常的なことがらやテーマばかりだが、大正期の目白文化村では、これらの生活スタイルが住民たちのさまざまな試行錯誤や“実験”を通じて、少しずつ定着していった。 |
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←目白文化村絵はがき(箱根土地発行) 「省線 |
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さて、1960年代半ばまでは、第一文化村から第二文化村へとタテに大きく抜けられるセンター通りがあった。現在は、途中で十三間通りに遮られている。この道をまっすぐ進むと、やがて第二文化村の西辺道へと突き当たり、それを左折して南へ道なりに下っていくと、ほどなく中井駅へと出られた。センター通り近辺には、数学者の小平邦彦、小説家の池谷信三郎、詩人の大島清、小野十三郎、萩原恭次郎などが住んでいた。 当時、中井駅のある斜面に住んでいた人々は、目白文化村の出現に強い影響を受けたのか、箱根土地の開発区域外にもかかわらず、文化村の洋風住宅を模倣したそっくりな屋敷を数多く建てている。こうして、目白文化村の存在(住宅街の外観や生活スタイル)は、大正期にはその周辺地域に、やがて昭和初期にかけては東京全体へと徐々に浸透していった。 |
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第二文化村へと、まっすぐに抜けられたセンター通り。突き当たりは現在、十三間通り(新目白通り)により遮られている。(方向@) 左手の住宅が、数学者・小平邦彦の旧邸。手前は、戦後に屋敷が再建されたが壊され、ずいぶん以前から駐車場になったまま家が建たない。電柱は、戦後に設置された。 |
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第一文化村が売り出されたときに、テニスコートと柔道場・相撲場のあった一画。(方向A) 柔道場と相撲場は利用する住民がほとんどなく、すぐにテニスコートと観覧席に拡張された。でも、戦前にテニスコートはつぶされて宅地となり、戦後しばらくは大きなアパートが建っていた。現在は、低層マンションとなっている。 |
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カギの字型にまがる、センター通りの東隣りの道。もとからの古い住民が数多く住んでいるせいか、戦前の文化村の屋敷を意識した、三角屋根のデザイン宅が多い。(方向B) この右手には、小説家の池谷信三郎の旧宅があったが、1933年(昭和8)に亡くなっている。 |
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正面の道が弁天通りで、弁天池のあった谷間へと下りる階段が見えている。(方向C) 右手は、第一文化村でもっとも大きな屋敷だったK邸。K邸については、当時の写真が残っているので、次回に改めて紹介したい。 このK邸の周囲には、会津八一をはじめ詩人の大島清、小野十三郎、萩原恭次郎などが住んでいた。いまでもクルマや人通りは少なく、閑静さは失われていない。 |
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