Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

昼なお怖いおばけ道あたり

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弁天通りを突きあたると、目前には明治末期の府営住宅が拡がった。この一帯は空襲でもあまり焼けてはおらず、戦前の古い家屋をあちこちで発見することができる。第一文化村の商店街へと抜ける道には、昭和初期から戦後にかけては商店を営んでいたらしい古い家屋も見かける。

この一画の南側に、住民から「おばけ道」と呼ばれている細い路地がある。戦前からさびしい細道だったらしく、おばけ道の呼称はかなり古い。この昼なお暗い路地を、カーブに沿って急ぎ足で歩いていくと、現在では十三間通り(新目白通り)へと抜けられるが、大正期は第二文化村へとつづく抜け道だった。おばけ道の周囲は、いまでもひっそりとしていて人の気配が少ない。

文化村の子供たちは、親からこの近辺では遊ばないよう言われていたそうだ。また、女性のひとり歩きも危ないといわれ、戦後もずっと避けられていた。街灯も少なく、夜になると暗闇がことのほか濃かったようだ。文化村にしてはめずらしく、細い道が入り組んだ不思議な一画だ。

 

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弁天通りの突き当たりには、戦災にあわなかった古い家屋が散在している。清戸道(目白通り)の商店街側から入り込んだ道端に残る、古い商店の建物。(方向@)

背後の住宅部分は昭和初期の建物だが、前部の店構えはおそらく戦後しばらくしてからのものと思われる。店舗の様子から床屋か美容院、または洋裁店のように見える。ちょうどこの前の道を右手(西南)へ少し歩いていき、細い路地を左へ折れると、おばけ道のある一画へと出る。

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第一文化村の開設当初、大正期の建築と思われる西洋館。建物が西洋風なのに、門が板塀をめぐらした純和風なのが面白い。(方向A)

このお屋敷の玄関にも、棕櫚が植えられている。ひっそりとして、道端で会話するのもはばかられるような雰囲気だ。

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左写真も、大正期の建築時そのままの姿をとどめるお屋敷だ。窓に泥棒よけの鉄格子を設置した以外、ほとんど手が加えられていないように見える。(方向B)

文化村に建てられた住宅は、邸の周囲に高い石塀を築かず、芝生に木製の垣根をめぐらすか、通りに面してそのまま玄関を設置するオープンな設計が数多い。この瀟洒な邸宅も、通りに面して開放的な玄関が置かれているのが興味深い。この屋敷の前に立つと、玄関をはしゃぎながら出入りする、大正期の子供たちの声が聞こえてきそうだ。このお宅に近接して、小説家の森山啓宅があった。いまは賑やかな声も聞こえず、邸がさびしげにひっそりとたたずんでいる。

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左は「おばけ道」へと入ったあたり。この道の両側を焼いて、空襲の火災はようやく止まった。いまでも街灯が少なく、夜になると人通りが絶える。夜間は、遠まわりをしてでもこの道を避けたと、住民の方が話してくれた。(方向C)

この道をいくと、現在はほどなく十三間通り(新目白通り)へと出てしまうが、それ以前は弁天通りとT字で結ばれた、第一文化村から第二文化村へと抜ける縦のメインストリートへと抜けることができた。

清戸道(目白通り)沿いの商店街へ用があると、第二文化村の住民は近道としてここを利用していたようだが、さすがに夜間は避けたらしい。文化村の子供たちも、夕方以降は近寄らないように親から言い含められていたようだ。

 

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