Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

いまも残る大正モダニズム住宅

大正住宅

弁天通りの突き当たりは、空襲でも焼けなかったエリアだ。第一文化村の開発当初からの大正モダニズム住宅の面影が、色濃く残っている一帯。大正モダニズム“建築”という言葉をよく聞く。大きな西洋風の会館だったり、なんらかのアニバーサリー的な建物だったりするのだが、一般市民の小規模住宅では都内でも残っているのがめずらしい。そういう意味で、ここでは目白文化村の特殊性も考慮に入れて、大正モダニズム“住宅”と呼ぶことにする。

弁天通りの右側に残る、文化村当初からのお宅が日本画家のW邸とI邸だ。W邸のほうは戦時中の一時的な疎開を除いて、日本画家のW様がずっと住まわれていた。建築当初、アトリエは1階にあったが1935(昭和10)2階部分を増築して、アトリエもそちらへ移したというお話をうかがった。つまり、もともとは目白文化村特有の、屋根裏部屋を備えた三角の尖がり屋根の邸宅だったことになる。戦後は、邸内にしきい壁を設け、一部を貸し出されていた。90年代までは、その貸し出された区画が、W邸とは別にG邸となっていた。

G家とは、第二文化村の下落合みどり幼稚園のつながりで、家族が何度もお邪魔して邸内を拝見している。和洋折衷の住宅建設会社が少なかったため、さまざまな建築技法に通じた宮大工にわざわざ依頼して建ててもらったそうだ。外観は西洋風の建物だが、邸内は今日の一般住宅と同じように和洋折衷の造りとなっている。現在では、W画伯のお孫さんが住まわれている。

 

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このY邸あたりで、空襲による火災は止まった。写真上の基礎の大谷石には、焦げ跡がわずかに残る。(方向@) 写真右のT邸も、大正期の建物は残っていたが、残念なことに少し前に建てかえられてしまった。でも、基礎の石積みは当時そのままの姿で残っている。(方向A)

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左の写真は1950年代後半、旧同志会(生活協同組合)の建物に隣接したあたり。江戸友禅染め工房の師匠宅だが、空襲時、この一画は焼けている。(方向B)

戦後は、純粋な日本家屋に建てかえられていたが、区画割りの大谷石に当初の面影が残っている。写真の男性は弟子のおひとりで、現在は下落合で江戸友禅工房を経営されている。

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左写真は第一文化村の開設当初からお住まいのW邸。ほんの少し前までは、その一部を借り受けたG邸でもあった。大正期、ふつうの大工では洋風住宅が建てられなかったため、宮大工に設計図をわたして特注している。(方向C)

昭和初期に2階が増築され、1階にあったアトリエが2階へと移動している。右手の急傾斜した屋根が、建築当初の三角屋根の名残りだ。邸内は、柱がすべて落ち着いたアメ色に変色しており、たいへんていねいに造られている。白ペンキの垣根がとても美しく、なんとも懐かしい香りがする。

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こちらも、大正期の風情をそのままとどめるI邸。玄関脇には、昭和初期に流行した「文化住宅」に付きものの棕櫚が植えられている。(方向D) 屋根などには手を入れられているようだが、他はほとんど建築当初のままの姿だ。大正時代の住宅と、BS衛星放送のパラボラアンテナとの対比は、不思議な感じがして面白い。

ガーデニングがお好きなのか、正面玄関にはさまざまな花の鉢植えがディスプレイされている。おそらく、当初は応接室に使われた部屋なのだろうか、南に面して思いきり張りだした大きな出窓がとても美しい。(方向E)  現在、家を新築する場合、区や都の条例により、木枠の窓は基本的に許されていない。どうしてもアルミサッシの住宅が増えてしまうわけだが、住宅の外観デザインとその落ち着き加減は、木とサッシの窓枠でこうも異なるものか・・・と、改めて実感させられる風情だ。

弁天通りをまっすぐ進み、このI邸を右手に見ながら突き当たって右折すると、第一文化村の商店街へ、そして清戸道(目白通り)へと抜けられる。その道の左手(西側)に隣接して、一面に府営住宅が建てられていたが、近辺は空襲の火災からもかろうじて焼け残っていた。

 

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