Chichiko Papalog 「気になる目白文化村」オルタネイト・テイク

弁天社のあるメインストリート

mainstreet

弁天社のある、第一文化村のメインストリートだ。現在、第二文化村内にある「下落合みどり幼稚園」(下落合教会運営)へオスガキどもが通っていたつながりで、この通りには知り合いも多い。下落合みどり幼稚園は戦後に建てられた幼稚園だが、ひらがな習いなど小学校の入学準備などいっさいやらせず、ひたすら泥まみれになって徹底的に遊ばせる方針が気に入って通わせていた。そのせいか、ふたりともいまだに勉強は不得意だが・・・。文化村内でもこの幼稚園の人気は高く、多くの子供たちが通っていた。

前回もふれたが、弁天池の畔から弁天社が少し高台になっているこの通り沿いに移築されたため、通称「弁天通り」などとも呼ばれている。また、戦前までは弁天鳥居の並びに同志会(生活協同組合)があったことでも知られていた。ゆったりとした区画割りで広い屋敷が並び、同志会では店頭販売をしていたせいもあって、買い物や散歩に、文化村の住民たちがもっともよく通り抜けた道だ。

 

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通りの両側には、いまでも100150坪ほどの屋敷がならんでいる。通りに沿って、奥まで3分の2ほどが空襲で焼けているため、建物はほとんどが戦後の建築ばかりだ。(方向@)

こういう街並みでマンションの姿が見えないのが、いまとなってはとても珍しく感じる。電柱は戦後に立てられたもので、戦前は地下共同講の電源ケーブルだった。

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住宅の基礎部分をよく観察すると、第一文化村の販売当時、整地や区画割りに利用された大谷石の基盤が確認できる。(方向A)

大正期の石積みをそのまま利用している屋敷もあるが、耐震対策を強化するためか、このように大谷石の上にコンクリートで再度基礎工事をしている住宅が増えた。

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戦前まで皇族だったG宮邸跡。1978年死去とともに、しばらくして屋敷は建てかえられたようだ。もともとは、第一文化村の開発当初、ライト風建築の広大なK邸敷地の一部だったが、昭和初期に北側のこの一画が早くも売却されている。(方向B)

G宮は、終戦時は陸軍中将という肩書きだったが、米国に友人たちが多かったらしく、もっとも早くから終戦を主張した皇族として知られる。陸軍内では、「皇道派」に近い思想の持ち主とされていたが、はっきりしない。戦後は早々に、自身で区役所へ出向いて皇族離脱したことでも有名だ。

野球の大ファンだったようで、ひょっとすると1943(昭和18)に第二文化村に隣接する野球場(のちに立教大学の長崎グラウンドと判明)で行われた、目白文化村チームと陸軍軍楽隊チームとの試合にも関連していたのかもしれない。

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目白文化村の弁財天社。本来は、この社の裏側、3mほど下の池の畔にあった。住民たちが毎日ていねいに掃除するものか、いまでも手入れがきちんとゆきとどいている。(方向C)

80年代ぐらいまで、この一角はもっと緑が多かったように思う。夏の暑い盛りにこの道を通ると、弁天社の境内で一息ついたものだ。だが、いまは弁天社の周囲だけしか木々は繁っていない。屋敷森が減ったのと、生垣がブロック塀にとって代わったからだろう。

写真下、右のモノクロ写真が、戦前まで活動していた同志会(生活協同組合)。左のカラー写真が、ほぼ同位置を撮影したものだ。昭和初期から流行し始めていた生活協同組合運動だが、目白文化村内でもクリスチャンが中心となって発足し、同志会と名づけられた。1階は商品の倉庫や売店として、2階は組合代表の宿泊施設として使われていたようだ。(方向D)

当初は、文化村の住民を対象としていたようだが、活動が拡がるにつれて隣接する府営住宅の住民たちもたくさん加入していたらしい。だいたい市場価格よりも10%前後安く商品を販売していたのは、現在の生協と変らない。肉や魚、野菜などの生鮮食料品は取り扱わず、酒や米、味噌、醤油など日持ちする食品を主体に販売していた。

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同志会

文化村で注文が多く、たいへん人気があった商品は、チーズ、バター、紅茶、スパゲティ、クッキーなどの菓子類だったそうだ。いまでは普通の食材や嗜好品だが、当時としてはかなりしゃれた食生活だったのだろう。朝はトーストに紅茶やコーヒー、昼はスパゲティか奮発して「大和田」の“うな重”、夜は日本食の献立て・・・というような、いまではありふれた和洋折衷の食卓だが、当時としてはかなりハイカラな食生活だったのかもしれない。

同志会には代表が宿泊していたせいか、目白通りの商店街がすべて店を閉じた深夜でも食料品や酒などが買えたため、文化村の住民たちはかなり重宝したようだ。食料統制が強まり、配給制が日常的になった1940年前後に、同志会は解散させられている。戦後、目白通りには早くも生協が復活しているが、同志会は復活しなかった。代わりに、この弁天通を突き当り、西側の府営住宅へとつづく通り沿いに、米や酒、味噌、醤油などを扱う商店「真鍋屋」が、新たに店開きしている。

同志会に隣接して、戦時中に建てられたものか「文化村ハウス」という、横長で木造の大きな共同住宅が造られている。かなりあとまで残っていたようで、ボロボロになった古いアパートのたたずまいは、住民たちの記憶に新しい。

 

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