Chichiko Papalog 「気になるエトセトラ」オルタネイト・テイク |
長崎アトリエ村−さくらが丘パルテノン−
小説家・堀田昇一は池袋界隈の“自由”を謳歌した『自由ヶ丘パルテノン』を著し、詩人・小熊秀雄は『池袋モンパルナス』を書いている。 池袋風景 池袋モンパルナスに夜が来た 学生、無頼漢、芸術家が 街に出てくる 彼女のために 神経をつかえ あまり 太くもなく 細くもなく 在り合せの神経を (『池袋モンパルナス』小熊秀雄より) さくらが丘パルテノンは、1936年(昭和11)から建設が始まり、1940年(昭和15)に第3パルテノンまでの全体が完成した。もともと低湿地帯だったところを、乾燥させるために石炭ガラを混ぜて埋め立て、その上に寝室付きのアトリエが次々と建てられていった。アトリエ村を建設した地主・初見六蔵は、若いころ米国へ渡って成功し、帰国後その資金をもとにさくらが丘パルテノン(長崎アトリエ村)建設を企画したのだという。 当時、アトリエ1軒あたり200〜400円で建設し、13〜18円ぐらいまでの家賃を設定した。かなり割りのいい商売だが、初見はおカネにかなりの余裕があったらしく、家賃が払えない住人に対しては強く取り立てをせず、親身になって仕事などを世話をしていたという。だから、ここに住んだ芸術家たちは大家について悪く言う人がいない。 下の空中写真は、戦後すぐに米軍によって撮られた1947年(昭和22)のさくらが丘パルテノンの全貌。空襲の被害はまったく見られず、アトリエ住宅が整然と並んでいるのが見える。 また、下の空中写真は1964年(昭和39)に撮られたもの。アトリエ住宅はかなり取り壊され、一般の住宅地化が進行しているのがわかる。1980年代半ばまで、かろうじてアトリエ住宅が残っていたが、90年代までにはほとんどすべてが建て替えられた。
家内の間取りは、広いアトリエに3畳から4畳半の寝室が付属しているレイアウトが一般的だった。(下左) トイレは付いていたが水道はなく、路地に設置された水道から室内の水がめへ水を運ぶのが1日の始まりだった。アトリエには石炭ストーブが設置されたが、寝室には暖房はない場合が多かったようだ。玄関は勝手口と兼用の家が多く、できあがった作品を搬出するには、アトリエの広い窓から持ち出されることが多かった。(右下写真/1948年撮影) 戦後も、数多くの芸術家たちが住みつづけ、盛んに勉強会が行われていた。下の左写真は、1953年(昭和28)ごろに開かれていた「パルテノン・クロッキー研究会」の様子。モデルを雇っては、画家の卵たちがデッサンに励んでいた。写真右は、1984年(昭和59)ごろのさくらが丘パルテノンのアトリエ住宅。このころまでは、かろうじて当時の建物が残っていたが、90年代に入る前にはすべての建物が取り壊された。
さくらが丘パルテノンをはじめ、長崎周辺のアトリエ村に集った画家や彫刻家は膨大な数におよぶ。その一部を紹介すると、靉光、寺田政明、峯孝、曹圭奉、川口信彦、野々村一男、菅沼五郎、昆野恒、館慶一、河原修平、麻生三郎、槫松正利、野見山曉治、中村健一郎、石井精三、長沢節、齋藤求、乗松巌、島田由紀子、赤松(丸木)俊、庄司栄吉、鈴木新夫、丸木位里、八幡健二、和田忠志・・・など。 また、詩人では小熊秀雄、高橋新吉、山之口貘、佐藤一英、花岡謙二、菊地芳一郎、大江満雄などが、アトリエ村に寄り添うように住んでいた。 ■参考資料 『豊島区立郷土資料館展示資料』
(1999年2月改訂版) 『豊島区郷土資料館常設展図録』 豊島区教育委員会 (2001年版) 『わたしの豊島紀行』 峯孝 (1990年8月〜1991年1月) 『わたしの豊島紀行』 永井保
(1986年4月) 『学園近傍めぐり』 目白学園広報室
(1990年) |
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